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2012年08月30日のつぶやき
00:39
映画「八日目の蝉」を今更観た。いいじゃないか…。うるっとした。
15:53
素敵な発想ですね。 RT @aiko_wheel: 毎日キスする芸術品ってちょっと他にない。湯呑。
18:33
そういう選び方を知るだけで大切なモノを見つけられそうですね。 RT @aiko_wheel: 湯呑を選ぶ時は口触りが優しそうかどうか見てあげて下さい。
2012年08月29日のつぶやき
15:00
日本人のよいところ。それは120点をとれることである。と、ふと思った。それは『臆病』だから。100点を目指すと、これで大丈夫だろうか?とか、間違えてるかも、怒られるかもという気持ちが強い。だから、怒られないように120点を目指し、結果100点を取っていた。
15:03
ところが、最近ではいつも100点は取れているという気になって、+アルファの20点をとることばかりを考えていた。結果的に答案は65点だった。基礎が完璧だったから、日本の+20点は時に100点を超え、常に100点をキープした。今はテストの参加の仕方がわからない。
20:52
生きる意味とか、働く意味とかって最終的に一攫千金を得られるような『アクティブ』な発明は生めない。そういう意味って昔から考えられていることだけど、結局のところそういう意味を考えると言うことは、その意味を諦める言い訳を探しているだけの様な気がしてきました。
20:54
人生なんてカレーの様なもの、ふくしん漬けをつける人もいれば、チーズや卵をつける人もいる。カレーをいかに美味しく食べるか、それだけだ。生きてるんだから、美味しく過ごそうっていうだけだ。
20:56
と自分に言い聞かせる。でも、哲学って『希望』の様なものもあるけど、カレーの味とか見た目ではなく、カレーの成分を分析しているだけの様な気がする。
20:58
生きる意味とか、仕事の意味とかを考えるより、より素敵な生き方とか仕事の仕方とかを考えた方が、カレーを食べるにはよい。
2012年08月28日のつぶやき
15:14
なんとなく世界が寛容になっている気がする。それはグローバル化の良い面なのかもしれない。しかしながら、日本人にとってはその寛容さが気にかかるポイントでもある。なんくるないさぁは、本土ではあまり通用しない。どっちが良いとかの話ではないんだな。
15:18
電車が5分遅れると都会の人は苛立つ。電車が定刻通りに来ると外国人は感動した。これが日本の長所だ!とも言えるが、その逆もしかり。外国人は遅れた時間に愛を語り合っていた。日本人は携帯でつぶやいている。
15:23
勿論全ての日本人がそういう感覚ではない。ただ、誰かの苛立ちは伝播する。そして、その苛立ちの矛先はとりあえず電車の遅延に向けられる。苛立ちは苛立ちを産む。
15:27
苛立っている人に話しかけると、苛立ちを言葉に乗せられる事が多い。そして、その苛立ちは、「はっ?何苛立ってんの?」と更に苛立ちを加え、苛立っている人は、苛立つ原因がひとつ増える。誰が悪いの?何が悪いの?
16:00
苛立っている人は基本的に自分は苛立っていないと思っている。「自分は間違っていない。」だから、苛立ちを指摘されると、苛立ちは加速する。「私が悪いの?」なんて。別に何も責めちゃいない。ただ感性が確実に狭くなる。いつもの言葉に棘を見出す。
16:04
これは日本人特有なのだろうか?きっとそうでもない。様々な事柄の組み合わせが、入れ子状に世界を狭めていく。そして、入れ子の中で狭まっていく世界に閉塞感を覚え、閉塞感が「いつもの自分」を縛っていく。
16:07
子供達をみていると、彼らはその閉塞感を瞬時に潰す事が出来る事に驚く。何かにつまづいてこけて泣き始めたかと思うと、次の瞬間に笑って走り出している。大人の目からみると、何が起こったのか一瞬戸惑う。しかし、子どもって言うのはそう言うもんだ。と断定する事も出来る。
16:10
また、場合によっては起こしてもろうという「優しさ」に触れられたから、それでOKなのかもしれない。でもそんな打算的な事ではない気もする。「泣く」事を忘れた様な気がする。彼らにとって時間は一瞬なのかもしれない。
16:14
泣いている事で停滞する時間よりも、走り出す時間の方が魅力的なのかもしれない。そんなちっちゃな話ではなく、泣いた自分、こけた自分は「別人」なのかもしれない。大人になった私達は、泣いた時を強く覚えている。感情の発芽は大人にとって重要な問題なのかもしれない。
16:19
子供達は入れ子の中には入らない。入りそうな瞬間に爆発する。そして、次の一歩を走り出す。だから、なかなか継続しない。でも、箱に入りそうな瞬間は感覚的に覚えている。時には箱を狡猾に利用し、周囲に箱に入りそうな瞬間を訴えかける。
16:25
そして、大人達は箱に入っちゃいけないよ。と、箱から子供を守る。他に楽しい事があるよ。と。しかしながら、人間は経験を積み重ねないといけない面もある。成長していくに連れて、様々な箱が用意される。そして、内へ内へと入れ子状に入って行く。
16:33
だから外の世界と戦う為には、防御力がモノを言う。経験と知識は無駄にならない。裸の自分が直接ダメージを受けるとどうなるのだろうか?きっと感情が爆発する。そして、その爆発は周囲からも見え、爆発した事がみんなにわかる。そして、裸の自分の恥ずかしさに、仮初めの箱を用意する。
16:36
周りからは見えなくなったから大丈夫だと一旦安心するが、その箱はダンボールであり、容易に破壊される事がある。また、ダンボールだと感覚的に覚えている為に、これじゃ守れないと、ダンボールにダンボールを重ねる。結果は自己満足のみである。
16:41
昨今の問題をみていると、入れ子の箱ばかりが目に付く。誰もなかなか出てこない。出てきたら攻撃されない為に、集中砲火を浴びせる。箱は己のテリトリーであり、会社であり、国である。内濠を固めたり、飾ったりすることで自己は完結する。
16:44
鉄壁の壁は、技術の改良により容易に溶解出来る様になった。少しづつ壁は溶かされている。でも覗き窓からは遠くの壁の状況は見えない。外の熱が伝わり、振動が伝わる事で見えない恐怖に襲われる。なにが起きているんだと。
17:37
で、結論は内に閉じるな!外に出よ!ってことでしょ。って皆さんご承知の事だと思いますし、言ってる本人が1番理解してるつもりです。だからこそ、ここからがクリエイションです。どうしたものか…。
17:38
共感! RT @asobun: 夏を切なくさせてるヤツって誰なん?
2012年08月27日のつぶやき
00:01
百発あれば全身叩けるけど、一発だと顎ぐらいが限界ですよね。と、そんな感じで『物語』の衝撃が違う訳です。そして、映画館に行く人が減った。また、本を読む人が減ったというのは、『別の世界』を経験していない人が増えたということだと思います。
00:03
そして、映画スターがいなくなったことが原因だ!というのは、単純に『憧れの主人公』、成りたい未来がなくなったということだと思います。かつて、男達は勝新太郎を畏怖し、石原裕次郎に憧れ、加山雄三の様にさわやかになり、ボートに乗りたいと思いました。
00:06
決して、同じ顔に成りたいとか、同じ事がしたいとかではなく、『生き方』がかっこいい。おれも『生き方』がかっこいい男になりたい!という様な、それこそ『物語』の次のステップへと進む、布石の様に映画スター達が存在した様に思います。
00:10
私たちはいつの間にか、憧れを持つ事が意味の無い事の様に思い、自分は世界にひとつなんだという教えに甘やかされて、何かに刺激を受ける事も無く、無知なままで、それでも『その無知さがいいの。』という自己愛に生きる様になったように思います。
00:14
かつて多くの映画スターがこの国には存在し、多くの武勇伝が語られました。そして、その武勇伝に触発されて多くの男達が更なる武勇伝を作りました。しかし時代とともに武勇伝は『恥ずかしいことだ。』と言われる様になり、男達は意気消沈しました。そして、草を食べ始める様になりました。
00:17
今の時代だからこそ、勝新太郎が必要であり、海老蔵の様なじゃじゃ馬を認める様な男達が必要なんだと思います。男は悪いぐらいが丁度良い。って、書き始めの内容と全く方向がズレてきましたので、かっこよさについての話はまたいつか。
00:21
今は『物語(ビジョン)』と『主人公(英雄)』に刺激され、立ち上がる男たち(有志)が必要な時だと思います。物語と主人公ばかりを求めていては何の意味も無い。かつての大人達が立ち上がった様に、物語をみて、次のステップを動かすようになりましょう。
00:22
だから、皆さん映画は映画館で見ましょうね。と、何のとりとめも無い話で失礼致しました。
00:39
桐島、課長やめるってよ http://t.co/PwezEAm5 #jugem_blog
23:39
評価経済社会は一発屋の味方である。 http://t.co/TguvkgMC #jugem_blog
評価経済社会は一発屋の味方である。
 評価経済社会のビジネスモデルを考えてみる。
評価経済というのは、端的に言うと売るものが
『もの』から『人』に変わった事だと理解しております。
間違ってたらごめんなさい。

『もの』というのはサービスなども含み、
『人』というのはブランドなどの付加価値も含みます。
価格に置き換えられやすいもの『対価』の様なものが
付きやすいのが『もの』であり、それが見えにくいものが
『人』の価値であり、評価経済のあり方だと推測している訳です。

『もの』を売って商売をするということに変わりはありませんが、
その価値のランク付け『価格設定』が、ものの『質』ではなく、
『評価』に変わったという事ですね。
極端な言い方をすると、モノどうこうはどうでもよく、
それよりもそれを評価している環境が大事。
『裸の王様』が大事ということですね。

勿論魅力という点はあるわけです。
それは今までの流行=『評価』というものは、
自分たちで判断しているという『思い込み』があった訳ですが、
実際の所メディアの刷り込みであったことも多い訳ですね。

ちゃんと自分たちの評価軸で『質』を見抜いていたと感じていた訳ですが、
本当はそうではなかった訳です。
なるほど、評価経済社会とは、もともとあったものであったが、
その認識が大きくなってきた社会ということなのかもと、今更気づく。

ま、そんなことは良いとして、要するに『評価』しているものが、
新聞、TVなどではなく、口コミやSNSの様な感覚的に近いものの方を
『重んじる』という様な社会になってきた訳ですね。

それには長所も短所もありますが、
とりあえず長所を見てのビジネスモデルを考えてみた。

『評価』しているものがTVなどの『遠い世界』ではなく、
SNSなどの『近い世界(幻想)』である様に感じるというのは、
そのコミュニティに容易にコミュニケート出来る機会
(ツイッターなど)が出てきたからだろう。

これまでは、流行や初の体験は『遠くの世界』の出来事であり、
そこに関与は出来ない。芸能人に触れる事は出来ない。
政治家に発言する事は出来ないと考えられてきた訳である。
しかし、そうではなくなった。見えない壁が取り払われた気になっている。

その見えない壁を畏怖していた人々は、
昨今の『無様な失敗』から、見えない壁を『見る必要の無い壁』
と考える様になり、『見るべく』は身近に関与出来る問題であり、
『アクション』であると考えだしたのではないでしょうか。

で、話は少し戻り、評価経済社会の勝ち方は勝間さんではないですが、
なんとしても『有名になること』ですね。
その有名になるなり方というのが、これからの問題になると思うのですが、
今の所、社会的認知度というのが評価経済社会を生き抜く上では
最も強い武器になる訳です。

と、ただの一般人がいったところで何の説得力も無いですが、
ビジネスモデルぐらいは考えられる。
この日本ではやっぱり『有名』であることというのは
『大きな価値』だと思います。見知らぬ誰かよりも、
知っている人、知っている人よりも、憧れの人、それは芸能人ですか?

芸能人かどうかは別にして、人に知られていることというのが
『価値』になるというのは皆様ご承知のことと思います。
売れる売れないは別にして、10人にアピールするのと
1000人にアピール出来るのは、土俵が違う訳ですね。

だから、『有名人』は価値になった訳です。
そして、その価値の『クオリティ』が求められる時代になった訳ですね。
だから芸能人も『うかつなこと』はしてられない。
でも、そんなに瞬時に変わる事ではないから大丈夫。
変わるまでに、自分の価値を『売れる人』はどんどん売っちゃいましょう。

というわけで、昨今では、自費であっても出版をし、
啓蒙書やビジネス書を出す人が後を絶たない訳ですが、
出す人と同時に、クオリティの高い人を『強く求める』
傾向というのが強くなっている様に思います。
ジョブズの話を聞きたいとか、柳井さんと話したいとかね。

ま、実際に話したいというところまで度胸のある人
というのはあまりいないと思いますが、
セミナーとかあれば行きたいという人は多いでしょうね。
クオリティの高い有名人は『話す事』や『会う事』も金に出来る訳です。
なんてのは皆さん承知ですね。

と、偉そうに前書きを書いていると知らず知らずに
ハードルが上がってきたので、今更思いつきの
ビジネスモデルを言うのに躊躇も覚えますが、
タクシー会社向けもしくは個人プロダクション向けのお話です。
要するにタクシーの運転手やっちゃいなよ。ということです。

勿論、ジョブズや柳井さんなど現役でバリバリの人にとっては論外ですが、
一発屋芸人とかにはもってこいだと思います。
顔だけでも知られている人というのに会いたい。
話してみたいという人はいる訳です。同時に話を聞いてみたいとかね。

作家さんとかでもいいんじゃないでしょうか。
その著書の話を聞きたい人というのは、
雑誌に載せるほどの反響はなくても、
ファンレターを送ってくれる様な人を多少は持っているものです。

ファンに直接売るなんて。。。という考えもあるかと思いますが、
それであればご自由に。『話』や『会う事』が金になる時間というのは
基本的には短いものだと思うのです。使えるものは最大の効果でつかいましょう。

その延長戦として『キャバタク』ですね。
実務的な問題は多々あると思いますが、
車という空間に萌える人たちは多い訳ですし、
キャストの子も『時間』を売れる。
たぶんこれまでも考えられた事はあるのだと思いますが、
現代にはマッチしている様に思います。すでにある?

2人だけの空間で、或は何名かだけの空間で、
『その人を独占できる』通常は会場や設備など開催費用だけでも大変な事になり、
『話したい』とか『聞きたい』とかいう思いが
無にされる機会というのは多々あります。やれることをやりましょ。

だから、一発屋芸人はとりあえずホームページと、
ドアに張るステッカーを用意して、すぐさま運転しましょう。
そして、ツイッターで現在地をなう。しましょう。
どうせ暇になったんだったら、そんなことも試してみてはいかがでしょう?
意外にあなたを独占したい人は多いかもしれません。

という訳で、評価経済社会でのビジネスモデル
『私の時間を売ります。byタクシーで』ってのは、
意外にいけるんじゃないでしょうか?
また、タクシーの運転手さんもそういう『芸』があるとお客さんも付く訳ですが、
一般人にはやっぱり難しいですよね。
いっそのこと24時間UST中継とかしてみたら?

というその場の思いつきでした。
2012年08月26日のつぶやき
15:18
日本はダメな国になったのか、それともほとんど変わってはいないが、時代にマッチしなくなったのか。きっと答えは後者だろう。では、今という時代はどういった時代なのか、またマッチした時代とは何がマッチしていたのか。そんな事を日々思う。
15:21
かつて、日本はアメリカに憧れそれを超える為に頑張ったのだと言われる。頑張り方も様々だが、単純な話が、かつての三種の神器といわゆる兎小屋ではない家。そんなものに魅力を感じ、○○ちゃんも持ってるからと、自己の生活に当てはめたのだろうか。
15:25
そして、兎小屋は国土の関係上、手に入れられなかったそうだが、三種の神器は自分達で模倣する事で代替品として手にすることが出来た。そして、その代替品を自分達流にアレンジして満足した。
15:27
日本の特徴として製品がアメリカよりも認められたのは「改良」の仕方が時代というか、発展途上の技術にマッチしたのだろう。そして何よりも割安で作ることが出来た。また、アナログを改良出来る行き届いた目を持っていた。
15:31
言い方の例としては「隙間」であり、改良点を見つける事にたけていたのかもしれない。この歯車の歯と歯の間は使えないの?みたいに。欧米人は身体と同様、視点の大きさが広いのかも知れない。だから、その隙間が自明のものであり、そこに自分達の指は入らないと思い込んでいたのだろう。
15:34
子供の頃は猫のようにすり抜けられた柵も、体格が大きくなるにつれ、抜けられない隙間になった。抜けようとしたら引っかかり、引っかかったら時間がかかる。だから柵を抜けるよりは、多少時間が掛かっても上から越える方が割安だ。
15:40
大人になり体格がガッチリとして、隙間は抜けられないと考える様になった。でも欧米人に比べ体格差は歴然としているから、同じ様に登ってもなかなか勝てない。じゃあ、走り高跳びの様に、棒を用意しよう。欧米人は柵を越えることはあくまで仕事だからそこまで手間はかけようとしない。
15:42
自分達は体格において劣っているのだから、例え手間でも棒を用意しとこうぜ!それを見ていた欧米人が途中から自分達も使いたいと言い出した。でも、用意してるのは日本人の数だけだから…。
15:49
じゃあ、作ってきてあげるよと一人の日本人が言った。そして、作る仕事が出来た。その方が楽しいし、柵を越えるにも限界があるから。その棒が普及していくにしたがい、日本人は棒作りに夢中になった。欧米人達も作って見たが、体格的になのか考え的になのか、後おいで良いものは作れなかった。
15:53
そうこうしているうちに、棒を作るのが仕事になった為に、その対価として欧米人が友達になってくれた。そして、欧米人達と休日は遊ぶようになった。そのうち、自分達も用意するのが面倒だからと、他の子達に任せる様になった。
15:58
他の子達も仲間になりたいと休日を返上して棒作りに明け暮れた。何時の間にか、日本人の作っていた棒は軽くて持ちやすいけどちょっと高いな。と思われる様になった。休日を楽しみたい欧米人達は、高くて良い棒よりも、多少使い勝手は悪くても安い棒にして、休日にお金を使う様になった。
15:59
話にまとまりがなくなってきましたが、もうちょっと続けてみます。
16:04
そのうち安い棒を作っていた子達も棒作りに夢中になった。日本人は棒を作ってはいたが、欧米人たちが柵を乗り越えやすい棒を作るよりも、自分達も競争したいと、自分達様に改良していった。
16:27
ある日、1人の子供がやってきて、昔の様にすんなり柵を抜けていった。何時の間にか柵を越えることだけが目的になって、柵の向こうはどうでもなくなっていた。元々は何があったのだろう。
16:31
欧米人は休日の楽しみ方を覚え、日本人は欧米人達の仲間にいれてもらった。その他の子達は夢中になる事を知り、それに対価がもらえる事を知った。
16:36
突然現れた子は何をしていたのだろうか。そして、日本人はその子をどう思ったのだろうか。その子は何もしていない。ただ抜けられる体格だっただけである。でも自分達は大人になってしまったからすんなり抜ける事は出来ないだろう。
16:39
また、他の柵が見つかれば、欧米人達は戻ってくるかもしれない。その先に何があるのかはわからないが、戻ってきたら、僕らが作った超機能的な棒を貸してあげよう。そして、もう一度友達になろう。
23:11
かっこよさを考える。日本人を誇れなくなったのは、映画スターがいなくなったからだ!と、ふと思う。そして、映画館に行かなくなったからだ!とも思う。モニターの大きさと比例して人間性は徐々に小さくなっていく。と、そんな気がする。
23:13
ふと思いつきで、モニターの大きさと人間性が比例すると書いてみましたが、なんだかそんな気がとてもしてきました。今日本中で一番見られているモニターは、きっと携帯電話&ポータブルゲーム。文化の成熟度はもしかしたら、モニターの大きさのレベルだったりして。
23:18
個人的な話ですが、私は映画を見るときは場所にもよりますが、ほとんど前方から3列以内の位置に座ります。それは視界のすべてを映像で埋めたいから。視界に別のもの或は闇というフレームが入るのがとっても気になるからです。映画の中に入っていけないからです。
23:20
感覚的なものだと思いますが、恐らく昔に比べて映画などの映像を見て、その映像に没入する感覚に陥る人の絶対数は減っている様に思います。それは、webを通してというのが一番ですが、『知らない世界』というのが、少なくなったからだと思います。
23:22
昔からたくさんの物語が綴られ、日々その数は増えていきますが、かつては、その物語を聞く機会というのが現実的に少なかった様に思います。勿論直接的なコミュニケーションで物語を聞くという機会は多かった様な気もしますが、単純に物語を知るツールが増えた訳ですね。
23:27
きっと慣れの感覚だと思うのですが、物語ひとつひとつのクオリティとは別の所で、慣れの感覚が生まれているのだと思います。本日の茂木さんツイートの様に、生まれて初めて聞く物語というのは、話のクオリティよりも、想像性という意味において感動が大きいのだと思います。
23:34
映画や小説など物語の魅力というのは、『別の世界』を疑似体験出来る事にあると個人的には思います。知らなかった世界や知りたくもなかった世界がバーチャルではあるが『見える(イメージできる)』、そして、夢の中で体験出来る。
23:37
上映が終わった後、主人公の真似をするようになんだか『別の力』を手に入れた様な気分になる。ブルースリーとかね。普段とは違う自分であり、時には憧れの自分や、なりたくない自分を反面教師として、感覚的な『何か』を得ていた様に思います。
23:40
それを得られるのが『物語』の魅力。そして、その得方として最適な環境が『映画館』だと個人的には思う訳です。真っ暗な空間で、物静かな空間で、突如鳴り響く音響は超刺激的、ひとりっきりの状態で、その物語に対峙する軽い軟禁状態。
23:43
しかも、自分でお金を払っている訳だから、集中しようと言う力も働いてか、物語の世界に没入しやすくなる訳ですね。良い映画というのは良くも悪くもとても刺激的で、『痛み』があると思います。その痛みは学びの痛みであり、その痛みを糧に出来るか。
23:45
同じ映画を見るにも、家で見る事も勿論出来ます。集中力のある方であれば問題ないのでしょうけど、私の様な人間はモニターの枠や、窓から指す光に妄想を膨らませてしまう場合があります。そうすると、恋人の話を上の空で聞いていることがバレる様に、あんまり特はありません。
23:52
要するに集中出来る環境があった方がそのものからは得られる事は多く、同じ拘束されるなら、家という色んな雑念が入る環境よりも、映画を流す為に作られた環境で見た方が良いっていう単純な話ですね。
23:55
で、モニターの大きさの話に戻りまして、例えモニターが小さくなっても集中は出来るというのはよくわかります。しかしながら、その集中の『大きさ』が違う様に思う訳です。映画のスクリーンはそれこそ身体ごと、テレビ画面は頭ぐらい、携帯は目だけ。
23:58
本当に感覚的すぎて伝わっていないと思いますが、仮に携帯と映画のモニターの画素数が同じだったとしたら、すべてのドットから刺激が出ていて、その数の量が大きさの分だけ違うという感じでしょうか。北斗百列拳と正拳突きの違いの様な、100発と1発。そんな違いです。
桐島、課長やめるってよ
タイトルで覗いて頂いた方ごめんなさい。

 日本の特徴は管理費が異常に高い事だと思う。
勿論、人件費を設定する基準が高いから
仕方がない事かも知れないが、細かく管理出来ると言うのが、
良い所でもあり、コスト高の要因なんですかね。
この管理費を金以外の対価で補えれば、何かとうまくいく気もする。

管理なんてものは理屈でいえば皆がルールを守りさえすれば、
いわゆる管理職なんて訳のわからない業務に
高額な賃金を支払う必要がない訳だが、
実際は管理能力なんてものの基準はとても疑わしい。
役目へのコミットメントを明確にすれば良いのだが、
色々な言い訳でそれは難しいのが現実なんですね。

きっと少し前は今よりももっとコミットメントする教養が
日本人にあったのだと思う。だから優秀なものづくりが出来た。
それはビジョンが明確だったからだろう。
こうやって、こうやって金を稼ぐとかね。
今は、業務を担当すれば金が湧いてくると考える風潮がある。
だから、歯車なんて必要ないと考える。

デジタルとアナログの違いは歯車が容易に見えるかどうかである。
容易に見えれば、やっている事の意味がわかるが、
デジタルの様に目に見えにくくなると、
多少の怠けは影響がでない様な錯覚に陥る。

そして、管理側もそれが見えないから、
具体的に数値がおかしな動きをするまでは気づかなくなってしまった。
そして、気づいた時には問題が大きくなりすぎて いて、手のうちようがない。
お金の稼ぎ方と言うのも、そんな感じになってしまった。
何を売ってお金を得ているのかわからなくなった。

日本はこれまで目に見える不具合には、
潔癖な国民性を持って対処することが出来た。
しかし、目に見えにくいコードというものは、
数字というキチンとした形を持っているため、
その知識への怠りが現在の状況を呼んでいる。

きっと日本人は目がとても良い。
だから欠損には誰よりも早く気づくことが出来た。
しかしながら、出来上がった構成は、
表面が取り繕われている為、中まで覗けない。
日本人はレコードまではギリギリ作ることが出来るが、
CDを作ることは出来ない。
でも世界一のレコードを作ることは出来る。

アナログに帰れ日本人。それが、日本の出来ることであり、
成熟していく時代の生き方である。

※嫉妬や出来ないことに憧れるよりも、
やれることをやろうよ!と言うことですので誤解のなきよう。
デジタルでも素晴らしいのを作っている方々はたくさんおられますので。

映画『桐島、部活やめるってよ。』
http://kirishima-movie.com/index.html
の様に、私たちは何を追っているのか、
そんなことをちゃんと考えなければ成らない様な気がする。
個人的にはジャストフィットはしませんでしたが、
もう一度見たいと思う映画でした。


2012年08月25日のつぶやき
10:07
ベーシックインカムのデザイン http://t.co/ZHdHxlV1 #jugem_blog
16:06
家庭画報を読んで今更ながら、これからは九州だ!なんて思う。
16:19
日本の特徴は管理費が異常に高い事だと思う。勿論、人件費を設定する基準が高いから仕方がない事かも知れないが、細かく管理出来ると言うのが、良い所でもあり、コストだかの要因なんですかね。この管理費を金以外の対価で補えれば、何かとうまくいく気もする。
16:30
管理なんてものは理屈でいえば皆がルールを守りさえすれば、いわゆる管理職なんて訳のわからない業務に高額な賃金を支払う必要がない訳だが、実際は管理能力なんてものの基準はとても疑わしい。役目へのコミットメントを明確にすれば良いのだが、色々な言い訳でそれは難しいのが現実なんですね。
16:34
きっと少し前は今よりももっとコミットメントする教養が日本人にあったのだと思う。だから優秀なものづくりが出来た。それはビジョンが明確だったからだろう。こうやって金を稼ぐとかね。今は、業務を担当すれば金が湧いてくると考える風潮がある。だから、歯車なんて必要ないと考える。
16:36
デジタルとアナログの違いは歯車が容易に見えるかどうかである。容易に見えれば、やっている事の意味がわかるが、デジタルの様に目に見えにくくなると、多少の怠けは影響がでない様な錯覚に陥る。
16:39
そして、管理側もそれが見えないから、具体的に数値がおかしな動きをするまでは気づかなくなってしまった。そして、気づいた時には問題が大きくなりすぎていて、手のうちようがない。お金の稼ぎ方と言うのも、そんな感じになってしまった。何を売ってお金を得ているのかわからなくなった。
16:42
日本はこれまで目に見える不具合には、潔癖な国民性を持って対処することが出来た。しかし、目に見えにくいコードというものは、数字というキチンとした形を持っているため、その知識への怠りが現在の状況を読んでいる。
16:45
きっと日本人は目がとても良い。だから欠損には誰よりも早く気づくことが出来た。しかしながら、出来上がった構成は、表面が取り繕われている為、中まで覗けない。日本人はレコードまではギリギリ作ることが出来るが、CDを作ることは出来ない。でも世界一のレコードを作ることは出来る。
16:54
アナログに帰れ日本人。それが、日本の出来ることであり、成熟していく時代の生き方である。
20:08
先ほど日本人よアナログに帰れ!と申しましたが、嫉妬や出来ないことに憧れるよりも、やれることをやろうよ!と言うことですので誤解のなきよう。デジタルでも素晴らしいのを作っている方々はたくさんおられますので。
20:30
マジ? RT @sasakitoshinao: 中国バブルの崩壊がついに本格化? (cont) http://t.co/5avTY1E2
ベーシックインカムのデザイン
 農家のあり方について素人なりに思う所を綴ってみる。
収穫された農作物が破棄されているというのは本当だろうか?
まあ、本当だろうけど、それをベーシックインカムとして
利用する事は出来ないのだろうか?なんてことは、
きっと考えられていることだと思う。

例えば農家にも小規模、大規模様々あるだろうが、
一人の人間が一ヶ月に必要な農作物を手に入れるのには
何平方メートルの農地が必要なのだろうか?
勿論、収穫時期や気候状況を別にして。

仮に一農家の畑or田んぼが100平方メートルだと設定して、
1人の人間の月に必要な量が8、3平方メートル分だとする。
そうすると、その農地へはいくら払えば、
1ヶ月使用する事が可能なのだろうか。

仮の設定で考えると100平方メートルの農地があれば、
1人の人間が1年間食べられる農作物が1つの農家でまかなえる。
勿論、収穫物の量と農地の量が比例しているかは置いておいて。

農家さんが農業を生業として生活を行う為には、
最低限いくら必要なのだろうか。
勿論、土地によりけり、人によりけりだとは思うが。
仮に300万円を設定するとすると、1平方メートル辺り、
3万円の売買が必要になる。では、
1平方メートル辺りの収穫量はどれぐらいなのだろうか。

勿論、運搬費や種、肥料、管理費などの費用が必要ではあるが、
正確な数字はいかほどなのだろうか?

正確な金額はひとまず置いておいて、
昨今では、企業や飲食店が農地を買う事が多い。
実質的にはレンタルのようなものかな。
企業や飲食店は農作物を買い取りそれに利潤をのせて売る訳だが、
実際の農作物の金額はいくらなのだろうか。
なんとなくこの金額設定がタブーな気がする。

企業や飲食店が直接取引を行うのは、
当然ながら自社の利潤を上げる為である。
企業や飲食店以外で農家と契約する事は出来ないのだろうか。
当然出来る。

具体的な農家さんとの契約はいかほどなのだろうか。
それを10人、20人のコミュニティで契約し、
生活に支障のない範囲で、食料購入する事は出来ないのだろうか。
1人、2人であれば、金額設定にもなかなかこぎつけないが、
最低保証はいかほどなのだろうか。

勿論、すべての人が農作物のみで暮らす昨今ではない訳だから、
食費が直接取引のみで浮く訳ではない。
ただ、八百屋さんやスーパーで売られている金額には疑問が起こる。

ただ、実際の所、落下リンゴの話に限らず、
風評被害の農家さんはいかほどで買い叩かれているのだろうか。
売っても売っても実入りにはならない。
それであれば、代理店を通さず個人取引は出来ないのだろうか。
当然、やっているところもある。ただ、公にはなりにくい。

だからスーパーや八百屋ではなく、
直接取引を請け負う代理店がweb上に様々ある訳だが、
結局そこにもマージンは発生する。
そして、仕事としても成立している。
それを破壊したいと言っているのではない。
でも、わかっちゃうと破壊されちゃうんだろうな。

残念ながら、目に見えない一括管理の代理店には、
農作物だけでなく、電気でもブランド品でも信用がなくなってしまった。
だから正直な話疑ってしまう。妥当な料金開示があり、
その上での流通コストや管理費が明示されないと、違和感が残る。
ある意味で残念な事ではある。

しかしながら、買い叩かれている農家さんもいるという
大義名分を掲げるというのは卑怯な話だが、
いわゆる『納得の価格』というのが疑わしい。
でも、同時にそこに様々なマージンをのせる事で
市場は成り立ち規模が拡大したのだろう。

単純に提案なのですが、風評被害で買い叩かれている農家さんと
3、40名程度のコミュニティでの直接取引を行う場合に、
農家さんも生業となって、3、40名も最低限飢餓に
陥らないやりとりを行うには、どれぐらいの農地規模と、ど
れぐらいのコストがかかるのでしょうか?

それがお互いに妥協点を打てる設定とはどれぐらいなのでしょうか?
色々と煩雑な事情もあると思いますが、
お互いが『生きる』ことが絶対事項だと考えれば、
団体での農地契約、マージンを取らないで行える仕組みというのは
意外と簡単に出来そうな気がするのですが出来ないものなのでしょうか。

勿論、農業は自然との戦いでもある訳ですから、
決められた量が絶対的に出来る保証というのも難しいとは思うのですが、
ファンドの様な形を借りて行う事は出来ないのでしょうか?
少ないときもあれば多いときもある。同時にいらないときもあれば、
困っているときもある。

基本的にどんなものでも、我々はストックや欠損の可能性を考え、
コンプライアンス問題の様に、何かにつけ
『できなかったらどうしよう』を言い訳に、
無駄なものを大量に作ってきた様に思います。
しかしながら、目に見えるコミュニティで会話する事はやっぱりできないのでしょうか。

坂口恭平さんの『独立国家の作り方』中にもありましたが、
仮に誰も所有していない土地に、たくさんの食べ物がなっていたとしたら、
それを譲り合い、共生することは出来ないのでしょうか?
10人いたとして5つしか食べ物がないなら、
半分こにすればいいし、それが駄目なら後にすれば良い

でも、今の社会は10人いたら、とりあえず50個或は
100個用意しとけばなくなることはないだろうと考える。
で、余ったものは『ゴミ』にする。農作物は絶対に腐る。
そんなこと考えちゃいけないみたい。

別に正規で流通している農作物を安く売れ!
と言っている訳ではない。なんで余らすの?
なんで捨てるの?といっているだけである。
『もったいないおばけ』に食べられちゃうよ。と思う。

だから、余ったもの、捨てるものぐらいは捨てる前に、
動物達の保健所みたいな場所を作ってもいいじゃないか。
それで、農作物の値段が下がるとしたら、TPPでなんて勝ち残れない。
てか、それぐらい寛容になろうよと思う。

でも、きっとそれじゃ正規で買うのがばからしいとか、
違法な取引が横行するってなるんだろうけど、
じゃあ、君たちの生活水準を確保する為に弱者は。。。
という話なのか。って話にすると良くないね。

問題を探そうと思えば、問題なんていくらだって作れる。
要するに何が大事かって話だ。自分の生活水準の確保か、
他人の生かである。きっと社会は数年で混乱していくのだろう。
だから、その前にせめて『譲り合う気持ち』ってやつの
リハビリを行う必要がある様に思う。

みんな自分が弱者になったら、そんなことを言い出す。
偽善だろうがなんだろうが、人として何が大事か、
残念ながら経済競争に敗れた私たちが生きる『幸福な生活』というのは、
身近な所にあるが、それももうじきつぶれそうな気もする。

利他性の成熟度が問われている。なにが大事なのか、
何を大事にしたいのかが今後のあり方だろう。

生きる為には衣食住が必要である。
裏を返せば衣食住があればまかなえる。
衣食住を私たちは色んな形で装飾しすぎた。
デザインが見た目だけに走る様に、見た目だけにお金を払う様になった。
デザインとは装飾なのか?そうだとしたら、
『必要』とした『理由』は何だったのだろうか?

パーティーに参加する為には、宝飾品が必要かもしれない。そ
の宝飾品には華やかなデザインが必要なのかもしれない。
しかしながら、パーティーに参加しない人に宝飾品は必要なのだろうか。
畑仕事にネックレスは必要ですか。
でも、たまには『誰かに見せたい』。

そして、パーティーには参加しないけどパーティーに参加出来る
『資格』の様な『気分』が欲しい。
かつて『茶の道』は華やかさを極め、それを利休が戒めた。
その『わびさび』に日本人は共鳴した。
きっとそこには、『私』という自立した存在があったのだと思う。

残念ながら、利休は『美術館』に展示される様になった。
恐らく西洋でのデザインは鑑賞するものであり、
貴族達の為にあったものだと思う。
しかしながら、日本では、民衆の機能として磨き上げたものであったと思う。
私たちは民衆である。貴族ではない。

民衆は民衆の生活を『幸せに』送ろうじゃないか。
だから、『もったいないおばけ』が表れる前に、
とりあえず、余ったものや捨てるものは、
捨てる必要がないかもしれないから、
『ゴミ箱』じゃなく『ざる』にでも置いておこうよ。

そのざるに置かれた『食べ物』で救われる命があるかもしれないし。
それを涙して喜ぶ人がいるかもしれない。
ま、個人的には偽善的行為だとは思いますが、
どんなことでも偽善的行為である。

ベーシックインカムのデザインは、
装飾ではないことを祈る。

まったく関係ありませんが、
映画『桐島、部活やめるってよ。』
そこそこ面白かったですよ。
2012年08月24日のつぶやき
00:43
坂口恭平@zhtsssさんのように独立国家ならぬ、国家とは別のコミュニティの形が作り出され始めている。 IKEA、家具販売→ ホテル運営の次は遂に『街づくり』に着手! その名も“Ikeavill” http://t.co/l5HJURuI
01:01
好きな映画を何度も英語字幕でみると英語が出来る様にはならないかな。
08:51
埃が見えないのはデザイナーではない。 http://t.co/VWyG9ogV #jugem_blog
09:43
朝起きて身体がだるいので泳ぎに行こうと水着を買いに来たら10時からでやんの。そらそうか( ̄◇ ̄;)
12:25
夏の温水プールって意味わからん。水は冷たいもんだ。だから海開きがある。しかも祝日にしてまで
13:42
かつて男の子は不具に憧れ、完璧であることに嫉妬した。
14:20
今では、完璧であることに憧れ、不具であることを軽蔑するようになった。
16:50
という訳で、Facebookとの連動は終わりにしようと思います。やっぱり個人的にはtwitterの方がfitする。生というのは呼吸の様に日々刻み込まないとね。映画『kotoko』の様に。という言い訳で人様のタイムラインを侵す。
16:58
農家のあり方について素人なりに思う所を綴ってみる。収穫された農作物が破棄されているというのは本当だろうか?まあ、本当だろうけど、それをベーシックインカムとして利用する事は出来ないのだろうか?なんてことは、きっと考えられていることだと思う。@yamakenkuidaoreですよね。
17:00
例えば農家にも小規模、大規模様々あるだろうが、一人の人間が一ヶ月に必要な農作物を手に入れるのには何平方メートルの農地が必要なのだろうか?勿論、収穫時期や気候状況を別にして。
17:02
仮に一農家の畑or田んぼが100平方メートルだと設定して、1人の人間の月に必要な量が8、3平方メートル分だとする。そうすると、その農地へはいくら払えば、1ヶ月使用する事が可能なのだろうか。
17:05
仮の設定で考えると100?の農地があれば、1人の人間が1年間食べられる農作物が1つの農家でまかなえる。勿論、収穫物の量と農地の量が比例しているかは置いておいて。
17:09
農家さんが農業を生業として生活を行う為には、最低限いくら必要なのだろうか。勿論、土地によりけり、人によりけりだとは思うが。仮に300万円を設定するとすると、1平方メートル辺り、3万円の売買が必要になる。では、1?辺りの収穫量はどれぐらいなのだろうか。
17:11
勿論、運搬費や種、肥料、管理費などの費用が必要ではあるが、正確な数字はいかほどなのだろうか?場所や人によりけりだと思いますが、よかったら教えて頂けませんか?@yamakenkuidaoreさん。
17:14
正確な金額はひとまず置いておいて、昨今では、企業や飲食店が農地を買う事が多い。実質的にはレンタルのようなものかな。企業や飲食店は農作物を買い取りそれに利潤をのせて売る訳だが、実際の農作物の金額はいくらなのだろうか。なんとなくこの金額設定がタブーな気がする。
17:16
企業や飲食店が直接取引を行うのは、当然ながら自社の利潤を上げる為である。企業や飲食店以外で農家と契約する事は出来ないのだろうか。当然出来る。津田さん@tsudaのメルマガを読んで素人なりに農地のベーシックインカムを考える。
17:18
具体的な農家さんとの契約はいかほどなのだろうか。それを10人、20人のコミュニティで契約し、生活に支障のない範囲で、食料購入する事は出来ないのだろうか。1人、2人であれば、金額設定にもなかなかこぎつけないが、最低保証はいかほどなのだろうか。
17:20
勿論、すべての人が農作物のみで暮らす昨今ではない訳だから、食費が直接取引のみで浮く訳ではない。ただ、八百屋さんやスーパーで売られている金額には疑問が起こる。ただ、それはやまけんさんが@yamakenkuidaore危惧される『安価競争』を生むのかもしれない。
17:22
ただ、実際の所、落下リンゴの話に限らず、風評被害の農家さんはいかほどで買い叩かれているのだろうか。売っても売っても実入りにはならない。それであれば、代理店を通さず個人取引は出来ないのだろうか。当然、やっているところもある。ただ、公にはなりにくい。
17:24
だからスーパーや八百屋ではなく、直接取引を請け負う代理店がweb上に様々ある訳だが、結局そこにもマージンは発生する。そして、仕事としても成立している。それを破壊したいと言っているのではない。でも、わかっちゃうと破壊されちゃうんだろうな。
17:27
残念ながら、目に見えない一括管理の代理店には、農作物だけでなく、電気でもブランド品でも信用がなくなってしまった。だから正直な話疑ってしまう。妥当な料金開示があり、その上での流通コストや管理費が明示されないと、違和感が残る。ある意味で残念な事ではある。
17:29
しかしながら、買い叩かれている農家さんもいるという大義名分を掲げるというのは卑怯な話だが、いわゆる『納得の価格』というのが疑わしい。でも、同時にそこに様々なマージンをのせる事で市場は成り立ち規模が拡大したのだろう。
17:32
単純に提案なのですが、風評被害で買い叩かれている農家さんと3、40名程度のコミュニティでの直接取引を行う場合に、農家さんも生業となって、3、40名も最低限飢餓に陥らないやりとりを行うには、どれぐらいの農地規模と、どれぐらいのコストがかかるのでしょうか?
17:35
それがお互いに妥協点を打てる設定とはどれぐらいなのでしょうか?色々と煩雑な事情もあると思いますが、お互いが『生きる』ことが絶対事項だと考えれば、団体での農地契約、マージンを取らないで行える仕組みというのは意外と簡単に出来そうな気がするのですが出来ないものなのでしょうか。
17:37
勿論、農業は自然との戦いでもある訳ですから、決められた量が絶対的に出来る保証というのも難しいとは思うのですが、ファンドの様な形を借りて行う事は出来ないのでしょうか?少ないときもあれば多いときもある。同時にいらないときもあれば、困っているときもある。
17:40
基本的にどんなものでも、我々はストックや欠損の可能性を考え、コンプライアンス問題の様に、何かにつけ『できなかったらどうしよう』を言い訳に、無駄なものを大量に作ってきた様に思います。しかしながら、目に見えるコミュニティで会話する事はやっぱりできないのでしょうか。
17:41
しかしながら、今、目の前に倒れている人がいたとしたら対応は変わるものだと信じております。例えそれがきれいごとだとしても。
17:45
坂口恭平さん@zhtsssの『独立国家の作り方』中にもありましたが、仮に誰も所有していない土地に、たくさんの食べ物がなっていたとしたら、それを譲り合い、共生することは出来ないのでしょうか?10人いたとして5つしか食べ物がないなら、半分こにすればいいし、それが駄目なら後にすれば良い
17:47
でも、今の社会は10人いたら、とりあえず50個或は100個用意しとけばなくなることはないだろうと考える。で、余ったものは『ゴミ』にする。農作物は絶対に腐る。そんなこと考えちゃいけないみたい。
17:49
別に正規で流通している農作物を安く売れ!と言っている訳ではない。なんで余らすの?なんで捨てるの?といっているだけである。『もったいないおばけ』に食べられちゃうよ。と思う。
17:51
だから、余ったもの、捨てるものぐらいは捨てる前に、動物達の保健所みたいな場所を作ってもいいじゃないか。それで、農作物の値段が下がるとしたら、TPPでなんて勝ち残れない。てか、それぐらい寛容になろうよと思う。
17:53
でも、きっとそれじゃ正規で買うのがばからしいとか、違法な取引が横行するってなるんだろうけど、じゃあ、君たちの生活水準を確保する為に弱者は。。。という話なのか。って話にすると良くないね。
17:56
問題を探そうと思えば、問題なんていくらだって作れる。要するに何が大事かって話だ。自分の生活水準の確保か、他人の生かである。きっと社会は数年で混乱していくのだろう。だから、その前にせめて『譲り合う気持ち』ってやつのリハビリを行う必要がある様に思う。
17:57
みんな自分が弱者になったら、そんなことを言い出す。偽善だろうがなんだろうが、人として何が大事か、残念ながら経済競争に敗れた私たちが生きる『幸福な生活』というのは、身近な所にあるが、それももうじきつぶれそうな気もする。
18:00
茂木さん@kenichiromogiのメルマガ私塾でお金についての考え方で、利他性の成熟が上げられていたが、その利他性の成熟度が問われている。なにが大事なのか、何を大事にしたいのかが今後のあり方だろう。
18:03
生きる為には衣食住が必要である。裏を返せば衣食住があればまかなえる。衣食住を私たちは色んな形で装飾しすぎた。デザインが見た目だけに走る様に、見た目だけにお金を払う様になった。デザインとは装飾なのか?そうだとしたら、『必要』とした『理由』は何だったのだろうか?
18:06
パーティーに参加する為には、宝飾品が必要かもしれない。その宝飾品には華やかなデザインが必要なのかもしれない。しかしながら、パーティーに参加しない人に宝飾品は必要なのだろうか。畑仕事にネックレスは必要ですか。でも、たまには『誰かに見せたい』。
18:09
そして、パーティーには参加しないけどパーティーに参加出来る『資格』の様な『気分』が欲しい。かつて『茶の道』は華やかさを極め、それを利休が戒めた。その『わびさび』に日本人は共鳴した。きっとそこには、『私』という自立した存在があったのだと思う。
18:12
残念ながら、利休は『美術館』に展示される様になった。恐らく西洋でのデザインは鑑賞するものであり、貴族達の為にあったものだと思う。しかしながら、日本では、民衆の機能として磨き上げたものであったと思う。私たちは民衆である。貴族ではない。
18:14
民衆は民衆の生活を『幸せに』送ろうじゃないか。だから、『もったいないおばけ』が表れる前に、とりあえず、余ったものや捨てるものは、捨てる必要がないかもしれないから、『ゴミ箱』じゃなく『ざる』にでも置いておこうよ。
18:15
そのざるに置かれた『食べ物』で救われる命があるかもしれないし。それを涙して喜ぶ人がいるかもしれない。ま、個人的には偽善的行為だとは思いますが、どんなことでも偽善的行為である。
18:21
やっぱり農家さんとの直接契約にはいくらかかるのだろうか。人それぞれだとは思いますが、3、40人のコミュニティでの団体契約だとある程度双方に負担無くより良い取引が出来る気がするんですけどね。津田さん@tsuda,出来れば@yamakenkuidaoreさんに聞いてみて下さい。