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『この空の花』感想
『みんなが爆弾なんか作らないで、
きれいな花火ばかり作っていたら、
きっと戦争なんか起きなかったんだな』

映画『この空の花』長岡花火物語を観て参りました。
映画?ドラマ?劇?文化祭?自主制作?
と、???の映画体験でしたが、
なぜか号泣してしまいました。

内容に関しては、毎度の様に省きますが、
私が個人的に共感を最も覚えたのをひとつ。

3人並んで歩いてみる。
真ん中の子がいなくなった。
そのポッカリ空いた穴(隙間)をあなたはどう思いますか?

いなくなったことが、寂しかったり、
哀しかったり、時にはホッとしたり、
人はその穴を何らかの感情で埋めます。
或は、何かで『補填』します。


何度も述べているお話で恐縮ですが、
私たちは、日本人であり、男性女性であり、
◯◯歳であり、◯◯世代であり、黄色人種であり、
と、様々なコミュニティ(ジャンル)に属している訳ですね。
その属し方は様々ですが、
以前『世紀末の詩』の引用で記載した様に
『こっちからこっちは俺のもの。』的に分類する訳です。

そして、そのコミュニティは、
凡その場合、安全を担保し、存在を記す訳です。
と、その話は何度も述べているので、
これぐらいにして。

この映画の中で語られていたひとつは、
このコミュニティに関してだった様に思います。
どんな人であれ、何らかのコミュニティ(ジャンル?)
には絶対的に属している訳ですが(年齢とか性別とかね)、
そのコミュニティの『優先順位』というものが、
生活を送る上で各々に存在する様に思います。

己の『生活』に最も身近なものから順に『優先』され、
考える比率も、想う比重も徐々に少なくなっていく訳です。
戦争から66年、『過去』となった『戦争体験』という
コミュニティの比重は忘れられつつあります。
そして、1年前の『震災』への比重も薄くなりつつあります。

それが悪い。と言っている訳ではありません。

過去を引きずり、過去を想い、停滞するよりも、
今は進むしかありません。
しかし、穴はまだ空いている訳です。

さて、その穴は何で埋められるのでしょうか?


そのひとつの回答がこの映画の内容だった様に思います。

私が感じた回答は、
『穴は埋めない。』ということです。
というと、大きな話ではわかりにくいですが、
真ん中の子がいなくなった。
というのは、真ん中の子が『同じコミュニティ』からいなくなった。
ということだと思います。

そこには、様々な理由があるのでしょう。
本当は、抜けたくなかったのかもしれませんし、
もしかすると自主的だったのかもしれません。

しかしながら、私たちはその空いた『穴』を
哀れむ事しかできないのでしょうか?

もしかすると、その子はより元気に生きているかもしれません。
場合によってはまた戻ってくるかもしれません。
しかしながら、それはわかりません。
そして、その『穴』は確実に『現実』に出来た訳です。
その『現実』は決して変わらない訳です。

私たちに出来る事というのは、
『その子』のコミュニティという、
『私たちとは別』のコミュニティを好意的に受け止める。
という姿勢であり、アクションなのではないでしょうか。

それは、2011年6月1日の自主規制しない長岡花火であり、
2011年12月8日の真珠湾追悼という
アクションだったのではないでしょうか。

2011年3月11日東北地方の人々は被災されました。

私たちに出来る事は、
哀れむことでしょうか?
忘れる事でしょうか?

ただ、ただ『祈る』ことでしかないのではないでしょうか。
もちろん、好意的なアクションを前提とした上でね。

映画では『想像する事』ということを言っていました。
『想像』を辞書で引くと、それは『想い描くこと』であり、
或は『創造』=『新しく生み出す事』であり、
絶対的にポジティブな意味な訳です。

ポッカリ空いた穴をあなたはどうしますか?

自分とは別のコミュニティを認め、想う事。
これが私たちに出来る唯一の事であり、
その結果『爆弾が花火』に変われば素敵ですね〜。

と、映画を観ていない方には
多分よくわからないと思いますが、
そのもやもや感を持って、
ぜひご覧下さい。

『この空の花』
http://konosoranohana.jp/