『我思う、故に我あり。』
生きる事は常に考え続けられるテーマであり、
『死』というどうしようもない『前提』がある時点で、
どうしようもない訳ですね。
あらかじめ今日はとても長いです。
と、数ヶ月前『頑張ろう神戸』にならって、
『生きろ。』を掲げようと考えた訳ですが、
なかなかどうしてうまくいかないものですね。
原発問題や大震災という『危機』というか
『破滅』的出来事が起こり、後ろ向きな意見というのが、
どうも発言しにくい雰囲気を感じる今日この頃ですが、
あえて排他的に『未来』について考えてみました。
原発問題が大問題なのは、その『危険』が、
目に見えないからだと言うのは皆様ご承知の通りだと思いますし、
何度も述べられてきている事だと思います。
実例として挙げられるチェルノブイリですが、
多大な被害もあり、『25年』たった現在も目に見える
『被害』というのが統計の話に置き換えられ、
曖昧な『わからない』ものとして、
『霞ヶ関問題』の様に扱われている状況もあります。
まあ、そんなお話を私がしたところで、
『前提』が共有されていないので何の意味もないのですが、
近頃言われる『未来の子供達』に対して思うところがある訳です。
考え方の問題として前提は様々に分けられると思います。
『死亡率』『生活水準』『がん発生率』『経済成長率』などなど、
テーマを挙げればきりがないですが、
いわゆる現在の『普通』が大きな前提としてある訳です。
その『現在』の『普通』自体とても疑わしいもので、
立ち方によって捉え方は様々です。
水が飲めるという普通。
明日食べるものがあるという普通。
明日起きられるという普通。
それこそ『グローバル』って見解からすれば、
日本はとっても『恵まれた』普通な訳ですね。
参考例:映画『誰も知らない』とかね。
しかしながら、今更『携帯』を手放せない私たちは、
『現在』からの『下降』=『不幸』と捉えてしまう訳です。
そんなこと言う私も現在の生活レベルの下降は、
やっぱり『不幸』と考えてしまうわけですねえ。。。
という話をしていてもループになってしまうので、
その話はやめにして、原発問題は何が『悲劇』なのかというと、
『成長するであろうと考えられていたことの伸びしろが短くなった』
ことが悲劇であり、重大な責任なのだと個人的には思う訳です。
寿命が下がる可能性が高くなり、
『日本』というブランドが低くなる可能性があり、
住めない国土が増える可能性がある訳です。
要するにこれまでは身長2mになれる可能性を秘めていた子が、
どう頑張っても180cmまでしか伸びなくなってしまった。
というようなことだと思います。
それは『バスケット選手』にとっては悲劇であり、
越えられようのない壁として立ちはだかってしまう訳ですね。
というと、とても楽観的なお話のように感じてしまいますが、
『夢』を諦めるというのは、非常に辛い事だと思います。
と、そういう環境におかれてしまった『未来の子供達』に対して、
嘆き悲しむのは、とても温かく清い心のように一見思います。
しかしながら、実際のところどうなのでしょうか?
10年後20年後はいざ知らず、50年後100年後、
自分たちの生きていない『未来』も考え方によっては、
大きく変わるように感じます。
それは、子孫に繋がるような継続的未来と、
断片としてのただの未来だと思います。
かつて訪れたカンボジアでは、
全ての人々はとても『不幸』でした。
しかし、そこに生きる彼らは私たちと同じ『幸せ』を
味わっていたように思います。
私たちは彼らに何もしてあげられず、
『哀れむ』ことしか出来ません。
場合によっては彼らの『未来』を叫ぶこともできるでしょう。
しかしながら、それで変わるものはあるのでしょうか?
彼らは彼らの『境遇』である『その時、その場所、その状況』
を生き、そこから大きな飛翔は決して出来ません。
その彼らに私たちはどのように、
『彼ら』を『想い』叫ぶのでしょうか。
良くも悪くも私たちは『当事者』ではありません。
そこに生きる彼らには、彼らの『境遇』しかありません。
すでに頑張っている人にもっと頑張れと言いますか?
180cmの人に2mまで伸ばせと言いますか?
誰かを想い、その誰かの為に叫ぶことは
とても美しいことのように思えます。
しかしながら、誰も魔法使いにはなれないし、
当事者も魔法が使えるようにはなりません。
『その時』を生きるしかない訳です。
今後はますます、『過去』は過去として忘れられ、
場合によっては当事者さえもその『事』を
考えることを避けることになるかもしれません。
数が縮小し、問題が問題と認識されなくなってしまったとき、
あなたは『未来の子供達』のことを叫ぶのでしょうか?
多くの人が『現実』を許容すると
あなたはただの偽善者になってしまいます。
誰の為に叫び、何の為に叫ぶのでしょうか?
それはきっと、『継続してほしい未来』に対してだと思います。
しかしながらそこにあなたはいることは出来ません。
あなたのいないその場所で、あなたは何も出来ません。
それはもしかするととても『残念』なことなのかもしれません。
しかしながら、未来の彼らにはどうしようも出来ません。
だから、そうなる前に叫ぶのでしょうか?
では具体的に何の為に?
彼らの『幸せ』はどんな幸せなのでしょうか?
今の私たちと同じような暮らしが幸せなのでしょうか?
それともブータンのような暮らしが幸せなのでしょうか?
決して、その『幸せ』はわかりません。
あるのは『幸せ』という言葉であり、
それを感じる当事者でしかありません。
あなたの考える『幸せ』とは何でしょうか?
その『幸せ』は確実に相手に伝わりますか?
よく使われる『未来の子供達』という言葉ですが、
それは自分たちの『悲しみ』をぶつける
はけ口になっているように感じます。
決して見ることのできない『未来』よりも、
今ここでやらなければいけないことがある。
勿論そのひとつに叫ぶこともあるのかもしれませんが、
その叫びは悲観的な『未来の子供達』ではなく、
『当事者』である私たちが生きる『今』であり、
『希望』のような道導なのかもしれません。
残念ながら起きてしまった過去は取り返しがつきません。
サクッと粛清して、次に行きましょう。
といっても、サクッと粛清できないから
困ったもんですよね。。。
私たちに出来ることはより良い『今』を作り、
それを成熟させていくことでしかありません。
しかしながら成熟したはずの民主主義も、
崩壊の予兆を覗かせ始めました。
何が正解なのかはわかりません。
だから、『未来の子供達』というイメージの話をするよりも、
『今』と『これから』をそろそろ考えませんか?
悲観的に叫ぶよりも、あなたが努力し、
180cmの人の方が有利なバスケットの『ルール』を、
『具体化する』と言う方が、
もしかしたら彼らの為になるのかもしれません。
何が良いかなんて誰にもわかりません。
生きるか死ぬかなんてわからないから生きるように、
自分の信じた道を突き進みましょう!
今月観る予定の映画
『哀しき獣』
http://kanashiki-kemono.com