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あなたにとって大事な事は?
 大事なのは伝えようとする行為である。

銀座の地下街を歩いていると何故かはわかりませんが、
昔のカレンダーがショーウインドウに展示されていました。

絵の作者が同じだからかなのかわかりませんが、
最初は誰かの作品かな?
程度に通り過ぎていた訳ですが、
いくつも続くウインドウに同じ様なテイストのものが飾られ、
そのうち、数字が入ってきました。
その数字は『2011』のような年号です。

もしかすると最初のものから入っていたのかもしれませんが、
全く興味がなかったので、見過ごしていたのかもしれません。
それぞれの年に象徴?なのか、単純に干支なのか描かれている訳ですが、
そのうちのひとつは2010年のもので絵は『辰』。
『???』と、思う訳です。
そして干支ではない。と、次の候補を頭の中で探る訳です。
和?と思うと、アンコール遺跡の様な絵もあり、
『明確』に何をその通路で表現したかったのか、
はたまたそんな意図はまったくないのかもしれませんが、
頭の中は軽く混乱する訳です。

と、そんな話はどうでも良くて、
『表現』というもの『難しさ』を思う訳です。

コミュニケーションが大事と言われる昨今。
というか『普遍』の事である訳ですが、
それだけ『忘れられてしまった』現代では、
その『力』であり『表現』が大事な訳です。

『表現』というのは、
言葉通り『他者』に対して何かを『表す事』であり『伝える事』です。
その『力』というのは、その他者が『明確』に理解出来たという
『理解度』のレベルな訳です。
『10』を伝えるのに、書き方を教えるのか、
読み方を教えるのか、意味を教えるのかであり、
同時にどういった問題の答えなのか『的確』に選ぶ『力』な訳です。

地図を書いて下さい。
と、お願いしたとします。
その依頼に対し、どのような『表現』をするかで、
相手の『気持ち』がわかります。(極端な話です。)

線だけで描くのか、目印を書くのか、
はたまたどこから書くのか、他者の意見を聞くのかなどなど。

基本的には皆さん確認し合ったりしながら
描かれることかと思いますが、
『相手』によって『確認』する場所が変わってくると思います。
そこの土地を知っている人が相手であれば『目印』からであり、
近しい人が相手であれば『誰でも知っている』ところからであり、
鬱陶しいやつであれば『グーグルマップ』に住所だけ入れて印刷。
誰にでもわかる様にしようと思えば、
『グーグルマップ』に駅名とコンビニとを入れ印刷し、
さらに手書きを加えてみたり。。。
なんて、色々と工夫される事かと思います。

そんな風にその『他者』をどのように
『見ている(観察)』かであり、
どのように『してあげようか(供給)』というのが、
『表現力』のレベルなのだと思います。

『これぐらいでわかるだろう。。。』というのと、
『これだけでわかるだろうか。。。』というのでは、
明らかに『違う』訳です。

しかしながら、
『これぐらいでわかるだろう。。。』というのは、
己の勝手な思い込みであり、
『これだけでわかるだろうか。。。』というのも、
己の勝手な思い込みである訳です。

要するに相手の事なんて『わからない。』訳です。
その『わからない』他者に対する『表現』というのは、
あくまでも『己の勝手な思い込み』であり、
ただの『エゴ』である訳です。

だから同時に、『やりすぎ』であり『やらなすぎ』である訳ですね。
つまるところ『表現』なんてものは、
あくまでも『私』のものであり、
そこに『他者』は存在しない訳です。

以前にも何度も述べた様な気がしますが、
昨今コミュニケーションが『忘れられてしまった』のは、
やっぱり機械を通して行われる『表現』というものが、
『勝手な思い込み』の一方通行であり、
さらに伝えている本人は『表現した』という
自己満足で完結しているからの様に思います。

アーティストとデザイナーの違いは、
『評価』をするのが『私』か『他者』かの違いだと思います。
なんとなく、現代ではほとんどの人が、
『アーティスト』の様に勝手な表現だけを吐き、
その『表現』が『伝わる』かどうかよりも、
『した』か『しないか』でしかないように
勝手に判断しているように思います。

ショーウインドウに並んでいた『カレンダー』は、
まじまじと眺めると全てに年号が入っていたのかもしれません。
もしかすると『タイトル』が入っていたのかもしれません。
もしかすると『カレンダー』ではなかったのかもしれません。

しかしながら、『作者』が何をしたかったのか、
はたまた、『展示者』が何をしたかったのか、
なんて『他者』である私には『わかりません。』

いつの間にか、私たちは『忙しい』ことや『相手の理解度』、
『相手の理解する姿勢』に『甘えて』、
『伝える努力』を怠ってきた様に思います。

結局の所、あなたの言いたい事が『伝わらない』のは、
『あなたのせい』であり、
『伝える努力』が足りないからに他なりません。
それで良いのであれば、何にも言う事はありませんが、
それが嫌だというのであれば、
『たとえ面倒であっても、伝わるまで表現しましょうよ。』
と、政治にも、ニュースにも、ウインドウにも感じ、
同時に反省する今日この頃であります。

あなたにとって『大事な事』は
あなたの『主張』ですか?
相手の『意見』ですか?

大事なのは、そんなお互いの『主張』なんかではなく
『ちゃんと伝え合う事』ではないですか?

ほんとコミュニケーションてめんどくさいですよね。

来月観る映画
『J・エドガー』
http://wwws.warnerbros.co.jp/hoover/index.html
変わらない事
 『かわらない事が最も大事な事である。』

なんてことはよく言われますが、
職人さんの世界なんかで言うと、
変わり続けながらも、『変わらない=普遍』であるように
あることが大事な事であるように思います。

ブランドについているタグなんかも、
多くの方々に認知されるようになってから
『変わる』なんてことはほぼないものですが、
『試行錯誤』の途上は、革新や転換の期に
『イメージ』を変える為に変えてみたりするものです。

男性なんかは、そんな『処女性』の様なものを求めて、
昔のタグの頃の方が良かった。なんて仰るのでしょうかね。
というのは冗談で、ブランドによっては、
その転換を期に、グレードが落ちたり。。。
なんてことはあったりするものです。

さて、今日は降ってるのか降っていないのか
はっきりしない空模様の中を何も持たずに出かけてみると、
案の定勢いが増してきたもので、傘でも買おうかと
とあるお店にはいってみました。

なんとなく以前から興味を持っていたものですが、
なんとなく以前とは『雰囲気』が違うようです。
と、手に持ってみると『おやおや。』
と、店員の方に尋ねてみました。

伺ってみるとなんと製造元の国では、
もうその仕様がスタンダードになっていて、
日本だけは昨年までは『こだわり』を持って、
以前の仕様で販売していたそうです。
ところが、もうその『こだわり』は
『秘かに』製造中止となり、
国内で販売されている在庫だけになってしまったそうです。

『でも、どうして。。。』
と尋ねてみると、さすがプロです。すらすらお答え頂けました。
『耐久性が。。。』
『防火性が。。。』
『強度が。。。』

『なるほどねえ〜。』なんて感想は特に覚えず、
『明らかにフォルムが変わってるじゃないですか〜!?』

と、凡そ皆様、検討が付かれたとは思いますが、
そうです。なんと『生地』が変わっていたのです。
ナイロン→ポリエステルに。

というのではなく。
それも勿論『大きな』要素のひとつですが、
独特の艶感はどこにでもあるものに変わり、
肉厚になり丈夫になり透けなくなった生地感は、
ものの見事に『美しかった』フォルムを残酷に
『破壊』していたんですね〜。

残念ながらそのお店には、
興味のあったものは今はなく、
某百貨店を見に行ってみたのですが、
『旧タイプ』と『新タイプ』が混同されたディスプレイについての
ご説明は特になく、応対して下さった店員さんに伺ってみた所、
『それが何か?』という様な反応でした。。。

そりゃ耐久性も上がり、透けなくなったんでしょうよ。
でも、残念ながら美しかったフォルムが『消えてしまった。』
訳です。
それは、さすがにまずいんじゃないでしょうか。

よく人を判断するのに『見た目よりも中身が大事。』
なんてことが言われます。
そりゃ、『新』の方が耐久性もあるんでしょうよ。
強度も高いんでしょうよ。透けたりしないんでしょうよ。

でもね。
私がそれに興味を持ったのは、
とても美しいフォルムをしていたからなんですよね。

耐久性が悪いのであれば使う頻度を変えますし、
強度がわるいのであれば風の強い時には使いません。
透けない?透けて何が悪い。

ものには『扱い方』があり、
その『扱い方』が人を変えてくれたりするものです。
私が欲しかったものは、『扱い方』であり、
私を『変えてくれる』ものであった訳です。

もう『過去』には戻れなくなってしまいました。
とりあえず最初に伺ったお店の別店舗にあるそうなので、
来週辺りにでも行ってみようかしら、
知らぬ間に『変わっている』もんなんですね。

とりあえずそんな事情をギリギリでも知れたのには助かりました。
色々と丁寧に、また『違う事』を教えてくれた店員さんには感謝です。

そんなお店
ヴァルカナイズロンドン有楽町店
http://www.vulcanize-lon.com
映画『哀しき獣』 くだらないの一言に尽きる。
 生きている事に意味などない。
あるのは意味を見いだす己だけである。

映画『哀しき獣』を観てきました。
うん。良い映画。の一言です。

人は誰しもが己が己の世界を己が主人公として生き、
そこに起こる事象もすべて己が中心に回っていると
認識している様に思います。度合いは別にして。

しかしながらその認識を『保つ』事は難しく、
『環境』の中に埋没しがちの様に思います。
だからこそ、予期せぬ出来事に出会い、
己が運命を呪ったりするわけですね。

と、ややこしい話はこれぐらいにして、
皆様は『劇的な体験』をしたことはありますか?
なんてことを言うと大げさな感じがしますが、
凡そほとんどの方があるものだと思います。
それこそ自分は『主人公』だから。

良い悪いではなく、それが当たり前であり、
常識的なことだと個人的には思います。
自分の不幸はとても痛く、人の不幸は『蜜の味』
なんて言葉があるぐらいですから。

日々、『ドラマ』は至る所で起こり、
同時に、至る所で起こるドラマになんて
なんの面白みもありはしないものです。

しかしながら、己に起こる『ドラマ』というのは、
あまりにも『ドラマチック』なものだと思います。
そこには、痛みがあり、疲労があり、
消耗があるわけですから。

と、映画の話に戻り、
最終的な感想は『くだらない。。。』の一言につきます。

どれだけ濃密に費やされた時間も、
金も感情も『当事者』以外には決して共有されません。

くだらない。。。の意味は勿論、映画自体の事ではありません。
『劇的な状況』に入り込んでしまった主人公に感情移入?
とまではいかないまでも、劇中の切迫感を
観客にも味わわせる内容はとても『濃密な体験』であり、
最終的には突き放され『他人』として、
主人公の『悲劇』をながめる『私』にとっては、
それこそ、
『なんて、くだらないんだ。。。』
の一言に尽きる内容な訳です。

生きる事も、働く事も、信じる事も、感じる事も、
己の中ではそれぞれに大きな意味があり、
それが与えられた『定め』の様に自ら『設定』し、
『主人公』として私たちは生きる訳です。

しかしながら、そんな事は『他人』から観たら、
『何の価値もない』訳です。
そりゃ、かわいそうだとか、痛そうだとか、
大丈夫?なんて思ってみちゃったりはするものです。
しかしながら、やっぱり『他人事』です。

なんとなく私たちは己という存在に
『大きな意味』を持ちすぎている様に思います。
それが良いのか悪いのかはわかりませんが、
そんなことを痛切に感じさせられました。

とは言っても、最後には若干救われる訳ですが。。。

あくまで若干ですけどね。

でも、映画自体はちょっぴりハードすぎるけど、
男性にはお勧めです。
邦題である『哀しき獣』色んな意味で納得の一言です。


来月観る予定の映画
『アニマル・キングダム』
http://www.ak-movie.com/
未来という偽善
 『我思う、故に我あり。』
生きる事は常に考え続けられるテーマであり、
『死』というどうしようもない『前提』がある時点で、
どうしようもない訳ですね。
あらかじめ今日はとても長いです。

と、数ヶ月前『頑張ろう神戸』にならって、
『生きろ。』を掲げようと考えた訳ですが、
なかなかどうしてうまくいかないものですね。

原発問題や大震災という『危機』というか
『破滅』的出来事が起こり、後ろ向きな意見というのが、
どうも発言しにくい雰囲気を感じる今日この頃ですが、
あえて排他的に『未来』について考えてみました。

原発問題が大問題なのは、その『危険』が、
目に見えないからだと言うのは皆様ご承知の通りだと思いますし、
何度も述べられてきている事だと思います。
実例として挙げられるチェルノブイリですが、
多大な被害もあり、『25年』たった現在も目に見える
『被害』というのが統計の話に置き換えられ、
曖昧な『わからない』ものとして、
『霞ヶ関問題』の様に扱われている状況もあります。

まあ、そんなお話を私がしたところで、
『前提』が共有されていないので何の意味もないのですが、
近頃言われる『未来の子供達』に対して思うところがある訳です。

考え方の問題として前提は様々に分けられると思います。
『死亡率』『生活水準』『がん発生率』『経済成長率』などなど、
テーマを挙げればきりがないですが、
いわゆる現在の『普通』が大きな前提としてある訳です。

その『現在』の『普通』自体とても疑わしいもので、
立ち方によって捉え方は様々です。
水が飲めるという普通。
明日食べるものがあるという普通。
明日起きられるという普通。

それこそ『グローバル』って見解からすれば、
日本はとっても『恵まれた』普通な訳ですね。
参考例:映画『誰も知らない』とかね。

しかしながら、今更『携帯』を手放せない私たちは、
『現在』からの『下降』=『不幸』と捉えてしまう訳です。
そんなこと言う私も現在の生活レベルの下降は、
やっぱり『不幸』と考えてしまうわけですねえ。。。

という話をしていてもループになってしまうので、
その話はやめにして、原発問題は何が『悲劇』なのかというと、
『成長するであろうと考えられていたことの伸びしろが短くなった』
ことが悲劇であり、重大な責任なのだと個人的には思う訳です。

寿命が下がる可能性が高くなり、
『日本』というブランドが低くなる可能性があり、
住めない国土が増える可能性がある訳です。

要するにこれまでは身長2mになれる可能性を秘めていた子が、
どう頑張っても180cmまでしか伸びなくなってしまった。
というようなことだと思います。
それは『バスケット選手』にとっては悲劇であり、
越えられようのない壁として立ちはだかってしまう訳ですね。
というと、とても楽観的なお話のように感じてしまいますが、
『夢』を諦めるというのは、非常に辛い事だと思います。

と、そういう環境におかれてしまった『未来の子供達』に対して、
嘆き悲しむのは、とても温かく清い心のように一見思います。
しかしながら、実際のところどうなのでしょうか?

10年後20年後はいざ知らず、50年後100年後、
自分たちの生きていない『未来』も考え方によっては、
大きく変わるように感じます。

それは、子孫に繋がるような継続的未来と、
断片としてのただの未来だと思います。


かつて訪れたカンボジアでは、
全ての人々はとても『不幸』でした。
しかし、そこに生きる彼らは私たちと同じ『幸せ』を
味わっていたように思います。

私たちは彼らに何もしてあげられず、
『哀れむ』ことしか出来ません。
場合によっては彼らの『未来』を叫ぶこともできるでしょう。
しかしながら、それで変わるものはあるのでしょうか?

彼らは彼らの『境遇』である『その時、その場所、その状況』
を生き、そこから大きな飛翔は決して出来ません。
その彼らに私たちはどのように、
『彼ら』を『想い』叫ぶのでしょうか。
良くも悪くも私たちは『当事者』ではありません。
そこに生きる彼らには、彼らの『境遇』しかありません。

すでに頑張っている人にもっと頑張れと言いますか?
180cmの人に2mまで伸ばせと言いますか?

誰かを想い、その誰かの為に叫ぶことは
とても美しいことのように思えます。

しかしながら、誰も魔法使いにはなれないし、
当事者も魔法が使えるようにはなりません。
『その時』を生きるしかない訳です。

今後はますます、『過去』は過去として忘れられ、
場合によっては当事者さえもその『事』を
考えることを避けることになるかもしれません。

数が縮小し、問題が問題と認識されなくなってしまったとき、
あなたは『未来の子供達』のことを叫ぶのでしょうか?
多くの人が『現実』を許容すると
あなたはただの偽善者になってしまいます。
誰の為に叫び、何の為に叫ぶのでしょうか?

それはきっと、『継続してほしい未来』に対してだと思います。
しかしながらそこにあなたはいることは出来ません。
あなたのいないその場所で、あなたは何も出来ません。

それはもしかするととても『残念』なことなのかもしれません。
しかしながら、未来の彼らにはどうしようも出来ません。
だから、そうなる前に叫ぶのでしょうか?
では具体的に何の為に?

彼らの『幸せ』はどんな幸せなのでしょうか?
今の私たちと同じような暮らしが幸せなのでしょうか?
それともブータンのような暮らしが幸せなのでしょうか?

決して、その『幸せ』はわかりません。
あるのは『幸せ』という言葉であり、
それを感じる当事者でしかありません。

あなたの考える『幸せ』とは何でしょうか?
その『幸せ』は確実に相手に伝わりますか?

よく使われる『未来の子供達』という言葉ですが、
それは自分たちの『悲しみ』をぶつける
はけ口になっているように感じます。

決して見ることのできない『未来』よりも、
今ここでやらなければいけないことがある。
勿論そのひとつに叫ぶこともあるのかもしれませんが、
その叫びは悲観的な『未来の子供達』ではなく、
『当事者』である私たちが生きる『今』であり、
『希望』のような道導なのかもしれません。

残念ながら起きてしまった過去は取り返しがつきません。
サクッと粛清して、次に行きましょう。

といっても、サクッと粛清できないから
困ったもんですよね。。。

私たちに出来ることはより良い『今』を作り、
それを成熟させていくことでしかありません。
しかしながら成熟したはずの民主主義も、
崩壊の予兆を覗かせ始めました。

何が正解なのかはわかりません。
だから、『未来の子供達』というイメージの話をするよりも、
『今』と『これから』をそろそろ考えませんか?

悲観的に叫ぶよりも、あなたが努力し、
180cmの人の方が有利なバスケットの『ルール』を、
『具体化する』と言う方が、
もしかしたら彼らの為になるのかもしれません。

何が良いかなんて誰にもわかりません。
生きるか死ぬかなんてわからないから生きるように、
自分の信じた道を突き進みましょう!

今月観る予定の映画
『哀しき獣』
http://kanashiki-kemono.com
当たって砕けろ
 窮地に立たされた時は沈黙するかあがくしかない。

2012年が明けました。
無事今日を迎えられた事はなによりですね。
年の初めというと、何事かを始めるきっかけを
与えてくれる良い機会の様に思います。

というわけで、私事ですが靴を新調致しました。
革靴というと足に馴染むのに時間がかかるもので、
嘘か誠かは別にしてある高級ブランドのフィッティングポリシーは
『血の出るフィッティング』なんて言うぐらい、
最初は足に負担をかけてもOK。とまではいきませんが、
第二の皮膚になるべく究極を目指したりするわけですね。
といっても、私はそこまでM気もないので、
ほどほどのフィッティングで怖じ気づく訳です。

と冗談はこれぐらいにしておいて、
年齢を重ねるにつれ、頭だけでなく行動力までも
減退するようなことが定説の様に語られ、
知らず知らず誰もがそれを肯定してしまうように感じます。

『若かりし』頃は気になっていた
無限のコミュニティからの『視線』も、
重ねられた経験と限定されだしたコミュニティになることで、
『臆病』になる必要がなくなり、堂々と或は怠惰に、
『貫禄』という言葉に酔いしれたりする訳です。

だから、『今更。。。』『この私が。。。』の様な枕詞がつき
新しいものを避ける傾向がついてしまう様に思います。

だから、そんな私が今更ガッチガチの馴染むのに
時間がかかる靴に手を伸ばすよりはスニーカーで。
っていう気持ちをかなぐり捨てて革靴を購入した訳です。

そして、案の定『靴擦れ』を起こす訳です。
筋力を忘れ続けた体が泣き叫ぶ様に、
硬い革はブヨブヨの皮膚を鞭打ち、
締め付ける紐は細くなった血管を圧迫する訳です。
そして、ぎこちない足取りで、
周囲から浮き足立ってみる訳です。

というのは嘘で、本当は、
若かりし頃の心地良い筋肉痛の様に、
なんだか笑みが出るんですよね。

よちよち歩きになりそうな気持ちを、
ダンディズムの精神で闊歩し、
引っ張られる皮膚を、
甘噛みする恋人のいたずらの様に笑顔で返す。
というと気持ち悪いですが、
『初めての感じ』と『これから』を
『ぎこちさな』に想う訳です。


なんとなく私たちは年齢を重ねるにつれ、
経験を重ねるにつれ『賢くなること』に脅迫されている様に思います。
特に今という時代は失敗は命取りであり、『目立たぬ』こと、
『変わらない』ことが求められている様に
認識する傾向があるように思います。

考えられる『余裕』がある内は沈黙していても良いかもしれません。
しかしながら、そんなことを言っている余裕はなくなりました。

沈黙は所詮アクションの1つでしかなく、
もがきあがく中の一瞬でしかありません。
『失敗してもいいじゃないか!』
というと、無責任な発言かもしれませんが、
こんな時だからこそ、トライ&エラーであり、
『あたってくだけろ!』精神で、色んな事を初めて見ましょう。
という、年初めの提案でした。

たまには『血の出るフィッティング』を味わうのも
一興かもしれませんよ。

今月観る映画
『ヒミズ』
http://himizu.gaga.ne.jp