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Time waits for no one
 2011年も残すところ数時間となりました。
久しぶりにアニメ映画『時をかける少女』を観ました。

毎年言われる激動の一年も終わりを迎え、
来年の抱負が語られ、忘年会で過去は忘れられる。
『ええじゃないか。ええじゃないか。』で
繰り返される1年ですが、
終わりと始まりのこの日にだけ、
誰もが『時間』というものを意識する様に思います。

よくよく語られる『時間』という概念ですが、
これほど『大切』でありながら実体のないモノというのは、
時に、いともたやすく忘れ去られてしまいます。

思い出されるのは『始まり』の時と『終わり』の時で、
その間というのは存在しないものの様に感じてしまうのは、
私だけではない様に思います。

映画の中で日々は繰り返され、
その日々は毎回修正を加えられます。
出来るだけ私の『思い通り』に。『うまくいく』ように。

その『思い通り』の日々が、
様々に影響し、事件へと発展していく訳ですが、
始まりと終わりの間をかけずり回る訳です。
最終的には、『運命』を受け入れ、
思い通りにいかなかった日々に戻り、
もう一度『始める』訳です。

私たちは極力『時間』を『大切』にしようと、
試行錯誤に時間を注ぎ、『運命』を操る事に神経を配る様に思います。
しかしながら、『運命』はとても過酷で、
そのおわりの時に大きな爪痕を残し、操る事も、
避ける方法も教えてはくれません。

そんな『運命』を恐れるよりも、
操る方法を探るよりも、
始まっている『今』を生きるんだ。
っていう映画だと個人的には思っています。

なんとなく、私たちは『やめること』と『続けること』に
脅迫され『始めること』を忘れている様に思います。
勿論、改めて始めずとも、日々は『始まっている』わけですが、
その『始まり』を意識し、始まりと『始めること』が、
大切な様に思いました。

始めるというと、どこか『今更』感のようなものがありますが、
どんな時でも『子供』の様に始められることが、
こんな時代だから大切であり、
こんな時代だから生きられる方法である様に思います。

タイムリープしている余裕なんてない。
時間は誰も待たない。
自分
 男は経験で判断し、女は感情で行動する。

なんて、よく言われる事ですが、
何事に置いても占いの様に当てはまるもんですね。
日本の政治の問題は誰も『ビジョン』が描けない事だ。
とは、よく言われますが、政治なんて御上の事情でなく、
私たち一般人の事情としてもそういう場面は多々ある訳です。

未来の記録をつけなさい。
なんて事がよく言われ、最近はそうでもないかもしれませんが、
ビジネス書の欄にはそのような類いの書籍が目についたものです。

何歳で何をし、何歳迄に何をする。
その為には逆算して今日はこれをやる。明日はあれをやる。
ってやつですね。

目標を持つ事は『生きていく』上で大事なものだと思いますし、
能動性や日々の変化に対応する応用力があれば、
記録をつけるのはとても大事な事だと思います。

3.11以前、明確にプランを決めていた人にとって、
3.11は全てのプランを破壊しました。

隠されていた問題は日々露出し、
その問題は『週刊誌』をわかせます。
3.11まで週刊誌は主婦の雑誌と思われていた感があります。
しかしながら『信用の崩壊』によって、
『疑わしい話題』を多くの人が認知する様になりました。
そして、その話題に対し、
多くの人が『文句』を言う様になりました。

というと週刊誌がよくないという意見の様に思われてしまいそうですが、
情報が多様になったことや、
その情報の『真実味』に伴って、『知らされなかった』事実が、
多々現れた事は良い事だと思います。

しかしながら問題は、
それだけ多くなった『問題(話題)』に多くの人が
『文句』を言い出した事の様に思います。

勿論『行動』を起こす事は最も大事な事だと思いますが、
『文句』をつけるだけに満足するだけの人や、
『話題』の数の多さ、『文句』の『質』の悪さに
辟易した人が多く出てきたのは問題の様に思います。

上司の文句を居酒屋で吐いたり、
グローバル化の波に畏怖するだけだったり、
俯瞰的視野が高いと勘違いして現実を馬鹿にしたりする人たちは、
『感情』だけで『判断』します。

5年以上の中長期的『安心』は確実に破綻しました。
今も尚、将来の『現実的問題』を考慮していない『国』も、
『会社』も『上司』にも描ける『ビジョン』はありません。

とりあえず冷静になろうよ。
そしたらきっと『絶望』しちゃうから。

と、思う今日この頃であります。

『ダイエットは明日から。』
というように、結局のところ『自分の姿』っていうのは、
なかなか見えないものですね。
日々反省。

男と女の話
http://magazine.gow.asia/love/column_details.php?column_uid=00000767
井の中の蛙
 『井の中の蛙 大海を知らず』
福島原発統合会見が炉の『冷温停止』に伴い終了したようですね。
溶けて今も尚、放射性物質を放出している可能性の高い、
『放射能』も『無主物』だから、炉からこぼれ落ちた時点で
仮にメルトスルーで現役活躍中でも、原発とは関係ないってことですね。

と、久しぶりに東電の話題を挙げてみましたが、
『冷温停止』は『事実』とテレビは伝えているのでしょうか。

さて、今はテレビのない生活の私ですが、
昨年迄は『テレビッ子』を自称するほどテレビッ子でした。
様々なジャンルの番組で様々なことを学び、
興味の対象を広げる媒体として、
とても便利な『ツール』でした。

と、『テレビなんて過去のもの』的な発言ですが、
そうではなく、今も昔もそう変わらず、
学べる事も多くあり、ニュースで日々取上げられる様々な『ネタ』は
相変わらず興味の対象を今も変わらず提供してくれていると思います。

テレビがなかったらきっと流行についていけない。
テレビがなかったらきっと世間話が出来ない。
テレビがなかったら『一般』がわからない。

なんて不安の様なものがあった訳ですが、
結局のところ、なにも『変わらない』訳です。

そもそも『流行』って必要?
そもそも『世間話』って必要?
そもそも『一般常識』って何?

と、思う訳です。
本屋に行くと相変わらずビジネス書や、啓蒙書が販売され、
平積みになり売れている訳です。(売れてるんですよね?)
その内容も相変わらず、『この一冊で。。。』
『これを読めば。。。』『あの偉人は。。。』な訳です。

個人的にはビジネス書も啓蒙書も2、3冊目を通し、
『えっ?知ってるし。』と気づくだけのものであり、
積み重ねられた過去のそれぞれの著者の『要約』でしかない訳ですね。
だから変わらずニーチェは読み継がれ、
それを『読んだ』著者が新たに『出版』する訳ですね。

結局、情報も思想も流行も日々生みだされ、
日々進化しているという『幻想』にとらわれている様に思います。

日々出版される『書物』には、日々新しい事が記録され、
日々放送される『情報』には、日々流行が隠れている。

もしかしたら『新しい事』も『流行』もそこにあるのかもしれません。

国会図書館なんかに行くとこれだけ『膨大』なんだもの、
知らない事が山ほどあるんでしょうよ。
テレビのチャンネル数もこれだけ増えたんだもの、
興味のある番組が山ほどあるんでしょうよ。

きっと『山ほどある』ことに知らぬ間に満足し、
山ほどあるから、どこかを掘れば金が見つかる。
と、私たちは『膨大な山』であり
『膨大な時間』を採掘に使っているのではないでしょうか。

膨大な山は先進国だけが有した『過去の蓄積』であり、
『過去の遺産』であった訳です。
しかしながら、その『山』は世界中からアクセス可能であり、
世界中が採掘可能となった訳です。

私たちは『膨大』にあることに満足していただけではないでしょうか。
それはもしかすると、
『金のスコップ』を持っていることを
自慢していたというだけの事かもしれません。

金は柔らかく重いものです。
そんなものよりも今は『カーボンのスコップ』の方が
良かったりして。。。

観ようか観まいか迷う映画
エル・ブリの秘密
http://www.elbulli-movie.jp/

見方 ミカタ
 『最近の若いものは。。。』と言い出すのは、
許容範囲が限定され始めたという事かもしれない。

さて、皆様は外国人の方を見て明確に違いはわかりますか?
白人、黒人、黄色人種その他にもあるのでしょうが、
日本人の属する黄色人種は別にして、
白人、黒人を見分けられる人はいても、
犬、猫、猿、一卵性双生児などを全般的に見分けられる人は、
ほぼほぼいないだろうと思います。

たまに勘違い(?)した女性が、
『私にとってはキムタクに見える。』
なんて、キムタクとは似ても似つかない男性を、
『キムタク』と勘違い(?)出来る様な発言を耳にします。

おやおや。。。なんて思う気持ちもわかりますが、
さてさて本当に勘違いなんでしょうか?

少し話は変わりますが、ファッションの話で言うと、
『価格』の違いを明確に判断出来る人は非常に少ない様に感じます。
なんとなく『雰囲気』というものでの判断であると思うのですが、
その『雰囲気』の判断には、『センス』であり『経験』が、
不可欠の様に思います。

日頃からきめ細かい繊細なものを目にしている人は、
きめの粗さに目が届き、多くの経験をしている人は、
『比較対象』からの判断材料を持っている様に感じます。

要するに判断材料は、『センス』であり『経験』である。
と言ってしまえば、どうでも良い話ですが、
それだけ、ある種『異質』のものの『判断』というのは、
ほとんどの人が苦手なのだと思います。

そして、センスや経験が足りない場合は、
それを『補う』或は『理解しようと思う』為に、
『着色』が行われるのだと思います。

数少ない『比較対象』と比べる為には、
理解しようと思って接する場合は『長所』を見つけ『補い』、
理解する必要がないと思って接する場合は『短所』、
或は『制限』を設け、『無視』する訳です。

年齢を重ねるにつれ、意識や知識や想像力は低下すると言われます。
それは、単純に積み重ねられた経験や知識、
そのことに対し思考する事に割ける『時間』が単純に
『重要』と判断しなくなるだけのように思います。

それぞれのコミュニティにはそれぞれに違いがある。
それを単純に『認識』するというのは、
『異質』のものに対し、
『理解する』ことを避けているだけなのかもしれません。

何事に置いても『理解する為には』その対象に対し、
もう一歩近づくだけで、『視点』が変わり、
同時に『現実』に近づける訳です。

『現実』には見たくもなかった『ほつれ』もあります。
しかしながら、その『ほつれ』を『補える』かどうかは、
あなたの愛情次第であり、同時に限界でもある訳です。

人の見え方というのは、
『センス』と『経験』という現実の力と
『補うセンス(愛情)』という想像によって、
多種多様な訳です。

『センス』と『経験』というのがとかく大事な様に思われがちですが、
『恐怖』ではない『愛情の着色』が出来るかどうかが、
人として重要な様に思います。

というあまり意味のない話ですが、
今月観る予定の映画『ラブ・アゲイン』
http://wwws.warnerbros.co.jp/crazystupidlove/index.html

映画『恋の罪』観てきました。
やっぱりボディにきますが、
知らない『見方』は必要である訳です。。。

『生きてんだ。』


映画『マネーボール』 高み
 夢や希望を叶えられる人間には
それにふさわしい犠牲や代償が支払われている。

高みという言葉を検索すると、
上の位置や傍観的な意味合いが出てきますが、
個人的にはここ最近の『志』や『目標』の様な印象を受けます。

何事に置いても、『基準』によって見え方は違うものですが、
なんとなく『世間』という基準は『弱き者』に対する
『偽善的見解』であるような気がします。
勿論、対照的な『権威者』達の基準というのもあるわけですが。。。

と、権威者の基準も、世間の基準も、
権威者に利用されている『世間の基準』も置いておいて、
映画『マネーボール』を観てきました。

実在するMLBのGMに関しての映画だそうですが、
経営のトップではなく、球団のトップであり、
監督の上であり、選手の選別人であるわけです。
と、わかりにくい言い回しですが、
トップであり、それ以下であり、またそれ『だけ』であるわけです。

度々、記載している内容で恐縮ですが、
地位や権威といった『ルール設定』が、
その者を作り、その『役目』を担わせるわけですが、
『権威者』や『責任者』というものは、
結果的に『嫌われる』わけです。

現場が『見る』数字と、球団が見る数字は違い、
ファンが見る数字もメディアが見る数字も、
オーナーが見る数字もほぼほぼ『違う』訳です。

この映画はいわゆる『世間』の見る『人間の暖かみ』の映画ではなく、
独断と偏見(データ)といういわゆる『嫌われもの』を題材にした
映画の様な印象を受けました。

そりゃ自分が、『今日から来なくていいよ。』とか、
『放出する。』なんて『もの』扱いされたら、
『なんだこいつは!』って憤慨したくなる気持ちもわかります。
しかしながら、そこに『役目』として就いているものは、
『選ばれた役目』であり『見えない何か』を犠牲にしているはずです。

弱者というのは、自分が弱い事を
『武器』だと勘違いすることがあるように思います。
しかしながら、弱者の下には更に弱者が続きます。
そのループを止めるものが『世間』であり、
『常識』であり『優しさ』だと思われている様に思います。

いわゆる『弱者』達から見たGMは、
『サイテー』なやつであり、常識はずれのやつであり、
『嫌われ者』であるわけです。

その『嫌われ者』は己の『高み』を目指しました。
嫌われる事を恐れず、失敗を恐れ、孤独を恐れ、
ただただストイックに。
でも、そこには『嫌われ者』を理解してくれる『基準』があり、
家族と友がいました。

嫌われ者でピンチの『GM』を娘は気遣い、
ストイックで凶暴な『GM』を友は助け、
冷静で的確な『GM』をMLBは認めました。

一カ所だけを捉えると、
そこに属さない人は羨み、蔑み、妬みます。
しかしながら、『人』は人だと思います。
『役目』があり『目標』があり、
『高み』を目指す。

だからこそ、『生きること』は美しく、
意味がついてくることなんだと思います。

どの『基準』を持つか、
なかなかストイックにはなれないものですが、
『弱者』の論理にははまりたくないものです。
少なくとも劇中の『選手達』は『プロ』であり続けました。
スカウトマンの様にならないように、
日々反省するのみですね。

映画『マネーボール』
ほろ苦くも爽やかな映画でした。