今日はかなり長めです。
また、『なぜ暴動が起こらない?』の序章のつもりです。
おそらく日本社会だけでなく人としての知識や教養、
技術や精度というものは尊いもので、
人として生活する中で蓄積され成熟したという結果を踏まえ、
年齢や経験を重ねた年長者やプロフェッショナルに
対する評価と言うものは、良きものとされるのだと思います。
個人的な考え方ですが、“神”がいたとすれば
それは一切の矛盾のない“完全な存在”だと思います。
が、そんなものは私の想像力内ではありえないと思います。
が、矛盾がないと言うのは置いておいて、
ある基準の上で“完全”に近い存在と言うのだとありえると思います。
と、ややこしそうな話なので簡単にしますが、
最近実績が上がらないそうですが、
想像上、10割打つイチローと言うのはありえると思います。
仮に10割打てたとしたらあまりにも“おもしろくない”ので、
嫌われると思いますが、現実は3割5分でもスーパーヒーローです。
と、話がずれてきたのでその話はまた別の機会にと思いますが、
3割5分どうこうは別にして、“ストイック”に突き詰めてきた
イチローに対し多くの人が賞賛の声をあげるわけですね。
イチローの場合は野球選手として、スポーツ選手として、
凝縮した錬度が異例の速さで実績を作り、
結果を残せるのだと思います。
ところが日本の市場はいかがでしょう?
良いか悪いかは別にして、若きリーダーというのはとても少なく、
もしかすると見えないだけかもしれませんが。
いわゆる成功者、権威者、発言者というのは、
多くの経験を積んだ“熟練者”であるように思います。
熟練者というものは、それぞれの道のエキスパートであり、
それぞれの道を極め知り尽くしているゆえ、
その下のものからすると“尊い存在”であるわけです。
そして、その“尊い存在”というのは、
下のものからすると『高尚』な存在のように思え、
また、『高尚』ゆえに尊い存在のように錯誤してしまうように思います。
『高尚』という言葉を調べると
【知性や品格が高く上品なこと】のように説明されます。
仕事だけに限らず、いわゆる趣味や特技、
或いは人生というものにおいても、
それらの経験の“高さ”というのは、
その存在の存在感に付随しているように思います。
だから、人生と言う経験を積んだ年長者は落ち着き払い、
ビジネスという経験を積んだ権威者は冷静に、
技術という経験を積んだ職人は寡黙であるように思われがちであり、
また、下のものからその様な“イメージ”で拘束されるように思います。
“成功者”である“熟練者”は事実かどうかは別にして、
世間的に上に上げたような“高尚”なイメージをつけられるように思います。
その結果、“成功者”には“成功”が求められ、
時に反発を招くわけですが、それも別の話。
と、結果、
日本の成功者=高尚な人間となり、
高尚な人間=憧れの存在となり、
仮に成功は修められなかったとしても、
その憧れの“高尚”な人間になることが“良きこと”である。
ように考えられているように思います。
その結果が、教養の育成であり、
礼儀作法や気遣い、無私の心を養おうという
『精神鍛錬』こそ最上のものだと考えられるようになったように思います。
と、これまでのブログパターンからすると、
『が、しかし。。。』
と思われた方もおられるかもしれませんが、
そんな『精神鍛錬』は個人的に大好物です。
で、また、そんな文化が養われたということは誇りに思います。
が、しかし!
というと『精神鍛錬』を惰った人々への文句か。。。
と思われた方。そうではありませんよ。
そんなこと青二才の私にはまだまだ言えません。
ただ、“高尚”であるという幻想が、
もうじき5ヶ月にもなる現状を生んだような気がしてなりません。
精神鍛錬を積んだ結果多くの人が『耐えること』を学んだのだと思います。
災害に耐え、風評?に耐え、生活に耐え、
そして、人災に巻き込まれた現実に耐え。
それには、多くの『美徳』があるように思われます。
というより、思いたいと思います。
災害をうらみ、風評を罵倒し、生活から逃げ、
そして、人災に巻き込まれた現実よりも
『私なんか。。。』という忍耐は、
それこそ“高尚”であるかのように思われます。
しかし、本当にそれは良いことなのでしょうか?
現実を生きる上できれいごとだけでは済まされない
『現実』は誰にでもあると思います。
出来るだけ『傷』を負いたくないと自己は防衛され、
時に無視し、忘れ、或いは、
『私にはどうしようもできないのだと』
諦めの言葉で締め括ります。
それは致し方のないことなのかもしれません。
基本的に私も何度も申すように発狂してしまいたい気持ちです。
しかしながら、諦めた人は置いておいて、
この現実に対し、“高尚”であるということは、
なんだか違うんじゃないの?
って思ってしまいます。
【知性や品格が高く上品なこと】
というのは、黙して語らぬことではなく、
『利他』の精神で戦うことであるように思います。
精神的鍛錬は己を強く守り“無私(耐える)”の精神を
高めたのかもしれませんが、そこには己しかいず、
10割打つイチローの様に嫌われたのかもしれません。
そんな“完全な人間”よりも、個人的には、
プライベートでは馬鹿なことをいって、
時には“醜態”という姿をさらしてしまうイチローの方が好ましく思い、
“完全”でないことを自覚しているからこそ、
ストイックに回りに何を言われようと『立ち向かう』
イチローの方が好きですね。
というと、『それって無私じゃね?』って思われるかもしれませんが、
エンターテイメントと言う世界で実績を作っていると言うことは、
十分に『利他』の精神だと思います。
たしか『プロフェッショナル』という番組でもいっていたと思います。
と言うわけで、本当に『鬱屈』しそうな毎日ですが、
いつかの『利他』の精神に届くように、
排他的な現実にまみれ、『無私』の精神で、
ブログに愚痴ります。
要は、『ぶってんじゃないわよ!』ってことですね。
たまにはというか、こんな機会に抗わないでどうすんの?
って思います。
でも、どうしたらいいかわからない。
というのもあるように思いますので、次回はそんな話をおば。。。