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好き?嫌い? 悲しい二極化
『好き?嫌い?どっち?』
…好きだよ。

『友達だよね?』
…友達だよ。

『信じるの?信じないの?』
…信じるよ。

よくあるYes OR Noですが、
私の言いたい事はおわかり頂けますよね。
勿論私は、『グレーです!』

ですが、ここのところどうも世間はYes OR Noの風潮です。
勿論、責任者はYes OR Noでなければならないと思いますが。。。

ツイッターで偏った発言をします。
すると私などのレベルでもフォロワーが減ります。
そして、著名人をフォローすると、なぜか私のフォロワーが増えます。
いやはやなんざんしょ?

と、愚痴はその程度にしておいて、
あなたは恋人と、友達と会う機会はどちらが多いですか?
好きな友達と、嫌いな友達と会う機会はどちらが多いですか?

結果は言うまでもありませんよね。
コミュニティという言葉の明確な意味はわかりませんが、
なんだかここ最近のコミュニティはYes OR Noで成り立っている気がします。

それが悪いとは思いません。
ですが、そこにいて楽しいのでしょうか。

先日、いわゆるSNSのアバターに月7万円かけている。
という話を知人から聞いて。

『???』

と、思いました。
バーチャルの世界の私の衣装や台詞にお金を払っているんですって。
払い続けているんですって。
多分ほとんどの方が書いている意味を理解出来ないと思います。
興味が仮にあるならお調べ下さいね。

好きな人だけがいる世界はさぞかし美しいことでしょう。
好きでいてもらう為には努力しなければいけないでしょう。

なんだか最近おかしくないかい?
そう感じるのは私だけでしょうか。

『好き?嫌い?どっち?』

あなたはなんと答えますか?
恋人であれば『好き。』と答えて上げてくださいね。
って、強制する事ではないですよね。(笑)

きっと違和感を持ったら、いけないのでしょうね。
阿吽の呼吸 伝えることは思いやりでしょ。
 日本の文化には『阿吽の呼吸』というものがあると言われます。
その言葉の意味はわざわざ記載するまでもなく、
皆さんご存知だと思いますので省きますが。。。

日本語は他の言語に比べ表現力が多彩だと言われます。
擬音表現や感情表現は多彩で、
思った言葉を英語に変換しようとすると
なかなかしっくりといかない。
ということに戸惑いを覚えたことがある方も多いかと思います。
勿論、国語として培われたボキャブラリーの問題で
実際のところ本当に少ないのかどうかはわかりませんが。

そんな日本人として生活しては来たものの、
実際のところ、会話をするときには家族であれ、
友人であれ、恋人であれあまりにも伝えたいことが
伝わらないというもどかしさを覚えたことがある方はとても多いと思います。

そんなつもりじゃなかったのに。。。
本当はちがうのに。。。
どうしてわかってくれないの。。。

なんて、感覚を覚えたことは数え切れません。
勿論、だからこそ、その誤解を避けるために言葉を尽くし、
時間を掛け、言葉だけではない様々な表現を通して、
少しでも100%に近づけたいと努力をするものですよね。
特に関係性が重要であればあるほど、
諦めきれないもどかしさを払拭しようと。なんて。

しかしながら世界というのは『平等』なもので、
その『我欲』とも言える『私の気持ちを100%理解してほしい』という
欲求を全て叶えるのは、相手の絶対的な了解というものがあってはじめて
成立するように思います。

かつて、今のように携帯電話もなく、
自宅に電話もなく、さらに電車、車、
という今では電子機械というものが一切なかったころ、
『言葉』は己を表すものとして絶対的な意味を持っていました。

決して届かぬ思いを残すことだけに綴られ、
国の命運を左右する行動をひとつの言葉に置き換えて、
叶えられなかった想いを言葉に託して。

と、大げさですが、それこそ『伝える』為に考えられうる力を、
決して乗り越えられない制限の中に尽くしてきたのだと思います。

と、前述のように『言語』だけの話になると、
結局私の表現力の問題もあり、
『メールがね。。。』
『携帯がね。。。』
『でも手紙なんて。。。』
と、なってしまうのが哀しい限りですが、
そうではなくというわけではありませんが、そうではなく。

今にして思えば『不便』な時代だったからこそ、
それらは仕方のないものであり、また回顧主義的に甘美なものに思え、
結果的に現在得ている恩恵というのは、
否定しがたいものですし、今更携帯を手放すというのは、
日本社会に存在する上ではある意味で『異端』と批判されかねないぐらい、
『当たり前』のものになっていると思います。
また、生命体として『進化する医療』を受けている時点で
そんなこということは出来ません。

と、ようやく本題に戻り、
そんな現代に生きている私達が行うべき『伝える』方法というのは、
どういった方法なのでしょうか?

かつて、『想い』は上記でも記載したように、
『制限』の中で尽くされてきました。
また、『受け手』もその制限を理解し言葉に残る
『かすかな想い』を見出したのだと思います。

書き手は制限された紙の上に、
この言葉で伝わるのだろうか、
この言葉は誤解されないだろうか、
この言葉で思い出してもらえるだろうかと思いを込めて、
一文字一文字に時間を掛けて、
紙の上に『自分』を残し、
受け手は、その漏れる想いを最大限考慮し、
時には己を慰める為に補填し、装飾し、
状況に合わせ、考えられうる『理解』をする為に
時間を掛けたのだと思います。

さてさて、というわけで最初に述べた『阿吽の呼吸』、
あなたはこれをどのように『理解』されますか?
勿論『言わなくてもわかる。』『心が通じ合っている』『以心伝心』
と、言いたい気持ちもわかりますし、
本当はそうなのかもしれません。

しかしながら、私は心が通じるまでの『訓練』は、
恐らく誰一人とも出来ていないと思います。
そんな言い方をすると『淋しい人ね。』なんて、
言われてしまいそうですが、
本当にあなたはそれほどまでに相手の気持ちを理解しておられますか?

以上の憶測から、個人的には日本の表現力が多彩な理由は、
『阿吽の呼吸』なんて逃げ道が一切介入できない、
『大切な人』への『制限』の結果だと思います。

勿論、気持ちを交わし続けた『訓練』の結果として
あくまで『両者の了解』の上での阿吽の呼吸、
以心伝心というものはあると思いますが、
逃げ口上に使う『阿吽の呼吸』とはまったくもって意味が違うように思います。

なんて、意味はどちらであってもどーでもいいですが、
こんな時代だからこそ、『日本人だから!』と誇大に叫ぶよりも、
『伝える』為の方法として、言葉を尽くしてみてはいかがでしょうか。


あなたの言葉は誰にも伝わっていませんよ。


いやぁ、長くなってしまいました。
まだまだ、私は阿形、吽形に遠く及ばず誰一人守れないのですね。。。
日本とまではいかないまでも、
代表と呼ばれる方々にはもう少し『訓練』をしてほしいと思うものです。

まぁ、そうはいっても『ショボッショボの人』ですからね。
ソープに行け 映画『その街のこども』を見て
 久々の更新です。なので、長いです。
タイトルからすると女性には少し怪訝な印象をもたれてしまいそうですが、
決して私の名言ではなく、北方謙三先生の名言であるということを前書きに。

と、先日『キラキラ』をポッドキャストで聞いていると、
吉田豪さんの北方謙三氏へのインタビューの回が掛かっていました。
単純にとても面白かったのと、今だからこそ為になるお話として、
個人的には感じましたので、おすそ分けついでに。

最近の例で言えば、5月18日本日某国首相が、
先日背景は置いておいて歴史的とも言える発言をしておきながら、
まぁ、明らかに撤回?あるいは明確な意図なしの露呈といった感じで、
世間の認識とは真逆の発言をされました。

まぁ、そんなことは置いておいて良くも悪くも、
そこまで世間の関心を動かすことが出来る『権力』というものの力の
絶対性は明らかに凡人の私たち一般庶民にはないわけですね。

まっ、そんな難しい話でなく、
同じ話をするにも社長さんと学生がするのでは重みが違い、
著名人と3流芸人が話すのでは信頼の度合いが『ハンパない。』わけですね。

それは明確な違いであり、『そんなことないよ。』なんて美談は、
ほぼありえないのだろうと、私自身もその『暗黙のルール』の中に
身を沈めているだろうと認識しながら、話を進めたいと思います。

よく外国人の日本人への評価の中で、『シャイであること』
『主体性がないこと』、いわゆる『グレー』などと
何を考えているのかわからないや、主義主張がないなどと
思われている節を目にすることがあります。

個人的にも確かにそれはあると思うし、
やっぱり『英語ができない。』と、ちょっと引け目を感じちゃいます。
それこそ身長高い人は多いし、
鉄火面(サルの顔がすべて同じに見えるように)のように、
見慣れない表情からは意思や意図が読み取れないので、
若干畏怖の念を抱くのは否めないように思います。

と、そんな様に私たち凡人は、
どこか自分のコミュニティ外の『存在』に対しては、
一種の気後れの様な感覚を覚えてしまうように思います。
その気後れが、『ペテン師』を『神』に代え、
『首相』という肩書きが『我が国』という幻想を抱かせるように思います。

さてさて、ようやく本題に戻りまして、
週刊ポスト2011年5月20日号でのインタビューの中で、
その名言を作った本人はというと、
20年以上前に発言しておきながら、
当人は『数年前に初めて行きました。』だそうです。

その話がとても面白いのですが、
そのお話は週刊ポストにお任せして、
『でも、海外ではたくさん経験しているよ。』と、語られたそうです。

それは、その国でその国の『女』を抱くことによって、
決定的に変わることがあるから。との事でした。

女性にはもしかするとわかりにくかったりするのかもしれません。
しかしながら、確実に『無知であること』、『弱くあること』、『劣っていること』
という劣等感は、事実ではなくとも『知らない何か』を神格化するように思います。

一言の不適切な発言が、致命的なダメージとなり、
怪しまざる行動が冤罪を呼び起こします。

前者は『全能の神』の考えられない失言であり、
後者は『悪魔の善』という裏がありそうな行いに変わる。

首相だろうが、政治家だろうが、検察官だろうが、
社長だろうが、芸能人だろうが、外国人だろうが、
『ただの人です。ショボッショボの人です。』と、
そんなことがわかると、劣等感も過度な期待も、
失望も希望もない。

勝手にビビるな!
勝手に憧れるな!
勝手に期待するな!

てめぇはてめぇで、ケツを拭け!

『ソープに行け。』

という発言には、そんな意味もあるようですよ。笑
と、個人的には思いました。

目をつぶるのは自分であり、
我慢するのも自分であるわけですね。
なんとなく、有名無名の違いや、
金銭的格差が『人間の質』の違いのように思われますが、
そんなものが取っ払われると初めてその『質』がわかるように思います。

近頃は原発の話しかされませんし、
誤解を承知で言わせて頂くと
『がんばれがんばれ。』と言われ続ける悲劇の主人公たちは、
勝手な他者によって神格化とは言わないまでも、
泣き言を言えない様に追い込まれていきます。

余談ですが、先日ようやくながら川越にて
映画『その街のこども』を見ました。

ただ、ただ、私たちには『祈る』ことしかできない。
そんなことを2ヶ月経って、もう一度思い直しました。

神も主役も英雄もいない。
たまたま、自分ではない彼らが今回被害にあわれてしまった。
ということでしかない。
だから私に出来ることは、なにもない。。。

みなさぁん。とりあえず出かけましょ。
JR東日本パス
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でも、地元でもお金使わないとね。
kizuna311 谷川俊太郎 願い
kizuna311 #24 奥田瑛二「願い」朗読
http://www.youtube.com/watch?v=W8cHQt5QsgY

願い 
谷川俊太郎 

いっしょにふるえて下さい

私が熱でふるえているとき 

私の熱を数字に変えたりしないで 

私の汗びっしょりの肌に 

あなたのひんやりと乾いた肌を下さい 

分かろうとしないで下さい 

私がうわごとを言いつづけるとき 

意味なんか探さないで 

夜っぴて私のそばにいて下さい 

たとえ私があなたを突きとばしても 

私の痛みは私だけのもの 

あなたにわけてあげることはできません 

全世界が一本の鋭い錐でしかないとき 

せめて目をつむり耐えて下さい 

あなたも私の敵であるということに 

あなたをまるごと私に下さい 

頭だけではいやです心だけでも 

あなたの背中に私を負って 

手さぐりでさまよってほしいのです 

よみのくにの泉のほとりを
義侠心 生中継中
 良いとか悪いとか、
かっこいいとかかっこ悪いとか、
なんだかそんなことどうでも良く思えます。

どの様になるのかはわかりませんが、
一人でも多くの方が耳を傾けることを祈ります。

シニア決死隊、「福島原発暴発阻止行動プロジェクト
)」の発起人、
山田恭暉氏のインタビュー中継。


一言。
かっこよすぎます。