わからないことがわからない。
かつてニュースステーションの司会をしておられた久米宏さんの魅力は、
我々一般人のわからないがわかっているということだと
表現の違いはありますがそのように仰られる方が多くおられるように思います。
福山雅治さんが売れる為に脱却した日常というものは、
わからないことがわからない。ということで慣れていた日常なのだと思います。
とかく、何事においても日々は積み重なっているわけで、
はじめは慣れない作業でも、
時を経ることで当たり前の習慣に変わっていくわけですね。
かつては知らなかったことも、知ってしまい当たり前になってしまえば、
自身はそこから次の段階へ進んでいるわけで、
朝起きて顔を洗うように、完全に『当たり前』になっていくわけですね。
と、そのような当たり前の習慣のように、
当然私たちはそれぞれ当たり前の環境に常にあるわけですよね。
性別であったり、年齢であったり、
住まいであったり、趣味であったり。
そのある種普遍的であるであろう『私』の周りの環境というのは、
ほぼ多数決で決められることが多いように思います。
最近の例で言えば池上彰さんの番組がそうであり、
ファストファッションがそうであり、
牛丼250円がそうであるわけですね。
と、若干わかりにくいかもしれませんが、
何が言いたいかと申しますと、
私たちは複合的な社会にいて、
様々な境遇に接しているわけです。
その環境下にいるという認識だけは忘れない方がいいと思いますし、
忘れてしまうということは、
その環境からは抜け出せないということだと思います。
ですので、誰もがわかるような解説をされる池上彰さんは、
わからない。という私たちを正確に外から見ているわけですね。
当たり前の環境というのは常に多数決によって変わりうるわけです。
それって少しこわくないですか。
ちゃんちゃん。