コミュニケーションツールは女子高生に広がった
ポケベルブームから本当にいつの間にか恐ろしい速さで、
変化しましたね。
ツイッターの社会的浸透も恐ろしい速さのようです。
140文字のコミュニケーションは何かを生むのでしょうか。
と、否定的な感じではありますが、
情報(というよりは出来事)のスピード感というか有益性というものは
使いこなせる方々にとってはとても魅力的なものだと思います。
思考を言語化するということはとても重要なことであり、
考えを確認、修正、進展させるために最も効率的な方法だと思います。
もんもんと自分の中で答えを模索するよりも、
それこそつぶやきが解決の糸口を生むこともあると思います。
しかしながらどうも肯定的になれないのはなぜでしょうか。
かつてサロンに集まる紳士淑女たちは“会話”を楽しみました。
その会話には時に様々な複線が張り巡らされ、
ひとつの言葉がチャンスを生み、
ひとつの言葉が堕落を呼び起こしたりしました。
会話にはマナーがあり、センスがあり、スキルがあり緊張が必要でした。
ひとりぼっちの壁当てキャッチボールには、“自分自身”がいました。
いつかの未来の為に投げるボールは、自らを確認させてくれます。
ネット社会という膨大なコミュニティの中では全てがつながっていると言われます。
ツイッターにもスキルもセンスもマナーも、
そして自分自身もいるのでしょう。
また見えないながらも他者がその先にはつながっているのでしょう。
しかしながら、私自身は“血の気を帯びない他者(友人知人は別)”にリアリティは感じません。
そのリアリティの欠如ということが、とても大きな問題のような気がします。
なんて、歳をとったから私がわからないだけで、
現代の方々はもっとリアルに感じているのかもしれませんね。
まぁ、つぶやきたい話があったら、どんなくだらない内容であっても、
ツイッターでつぶやかれるよりは、
私自身は直接私宛にコミュニケートしてくれる方がいいですね。