『最近の若いものは。。。』と言い出すのは、
許容範囲が限定され始めたという事かもしれない。
さて、皆様は外国人の方を見て明確に違いはわかりますか?
白人、黒人、黄色人種その他にもあるのでしょうが、
日本人の属する黄色人種は別にして、
白人、黒人を見分けられる人はいても、
犬、猫、猿、一卵性双生児などを全般的に見分けられる人は、
ほぼほぼいないだろうと思います。
たまに勘違い(?)した女性が、
『私にとってはキムタクに見える。』
なんて、キムタクとは似ても似つかない男性を、
『キムタク』と勘違い(?)出来る様な発言を耳にします。
おやおや。。。なんて思う気持ちもわかりますが、
さてさて本当に勘違いなんでしょうか?
少し話は変わりますが、ファッションの話で言うと、
『価格』の違いを明確に判断出来る人は非常に少ない様に感じます。
なんとなく『雰囲気』というものでの判断であると思うのですが、
その『雰囲気』の判断には、『センス』であり『経験』が、
不可欠の様に思います。
日頃からきめ細かい繊細なものを目にしている人は、
きめの粗さに目が届き、多くの経験をしている人は、
『比較対象』からの判断材料を持っている様に感じます。
要するに判断材料は、『センス』であり『経験』である。
と言ってしまえば、どうでも良い話ですが、
それだけ、ある種『異質』のものの『判断』というのは、
ほとんどの人が苦手なのだと思います。
そして、センスや経験が足りない場合は、
それを『補う』或は『理解しようと思う』為に、
『着色』が行われるのだと思います。
数少ない『比較対象』と比べる為には、
理解しようと思って接する場合は『長所』を見つけ『補い』、
理解する必要がないと思って接する場合は『短所』、
或は『制限』を設け、『無視』する訳です。
年齢を重ねるにつれ、意識や知識や想像力は低下すると言われます。
それは、単純に積み重ねられた経験や知識、
そのことに対し思考する事に割ける『時間』が単純に
『重要』と判断しなくなるだけのように思います。
それぞれのコミュニティにはそれぞれに違いがある。
それを単純に『認識』するというのは、
『異質』のものに対し、
『理解する』ことを避けているだけなのかもしれません。
何事に置いても『理解する為には』その対象に対し、
もう一歩近づくだけで、『視点』が変わり、
同時に『現実』に近づける訳です。
『現実』には見たくもなかった『ほつれ』もあります。
しかしながら、その『ほつれ』を『補える』かどうかは、
あなたの愛情次第であり、同時に限界でもある訳です。
人の見え方というのは、
『センス』と『経験』という現実の力と
『補うセンス(愛情)』という想像によって、
多種多様な訳です。
『センス』と『経験』というのがとかく大事な様に思われがちですが、
『恐怖』ではない『愛情の着色』が出来るかどうかが、
人として重要な様に思います。
というあまり意味のない話ですが、
今月観る予定の映画『ラブ・アゲイン』
http://wwws.warnerbros.co.jp/crazystupidlove/index.html
映画『恋の罪』観てきました。
やっぱりボディにきますが、
知らない『見方』は必要である訳です。。。
『生きてんだ。』