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生きるを考える
連続ツイートを文字だけに起こしました。
絵の力ってすごいですね。。。

 せっかくのお盆。生と死がいびつな日だからこそ、生きるについて僕の歪な形を磨きにかけます。美しい形になったらいいな。

考えるとは言いましたが、今回は今までの人生で何百回、何千回と考えてきた事で、ひとまず自分の中では腑に落ちる形になったので結論から申し上げます。生きる意味とは、生きている事の無意味さを認識し、そして作る事である。これが今の私の形です。

カンボジアを旅した時、僕は死を認識しました。絶体絶命の感覚というか、あっ。これは死ぬんだ。。。という感覚ですね。それまでも生きる事について考えていましたが、この時人生が大きく変わりました。

24時間身体の上下から『何か』が出続ける恐怖。実際は何も出るものがなくなった嘔吐の時と同じですが、24時間はかなりヘビーですよ。今だから笑い話ですがね。ww。しかも原因はただの氷だと思います。

異常事態が止まらない恐怖。しかも自分だけに起こっている訳ですし、たまたま独り部屋にいたし、なにせカンボジア。『help...』の思考も浮かばない状態です。というより、出っぱなしなので。。。

その時、あっこれは止まらないんだ。。。と諦めの様な発想が頭に浮かびました。そして、過去の走馬灯ではなく、新聞の記事が頭に浮かび上がりました。勿論、一面ではなく、恐らくスポーツ新聞的なものの中の方のページの下から3段目に、カンボジアで邦人男性死亡。

内容は名前も出ず、当時20歳なので、20歳学生カンボジアホテルで死亡。というのが、1行半に掲載。これが、諦めた時に浮かんだ最初のイメージでした。次に浮かんだのはTVニュースの女性キャスターでした。

TVの中で赤に近いオレンジ色のスーツを着た女性キャスターが、カンボジアで邦人男性死亡。というのをついでに述べていました。浮かんだイメージはこれだけです。もしかしたら身体は死なないということに気づいていたから走馬灯をみることは無かったのかもしれませんね〜。

そのイメージが浮かび、何故か私は涙を流すとと同時に笑っていました。『あっ。おれってこんなもんなんだ。』と。

それ以降の記憶はありませんが、次の日にはすっかり元気な朝を迎え、バイクを借りてラピュタを見にベンメリアへ向かいました。そして、転倒して血を流し、生きている。とは感じませんでしたが、『やっちゃた。』と思いました。

そんな体験をするまで、私は世界の主役でした。映画『トゥルーマンショー』みたいに。かなり本気で隠しカメラとか探してました。誰が何の為に『僕を作ったのか?』そんなことを子供の頃から考えていた気がします。

死を体験し、勿論死んでいないので体験とは言えないかもしれませんが。ww あっ、世界って広いんだ。僕はただの一日本人でしかないんだ。と思った訳です。『扱いちいさいな。。。』とね。

カンボジアの宿の人にとって、僕はただの一日本人。仕事が増えた。というむかつきとか、『この間、あそこで日本人が死んでね。』って現地の一瞬のネタにしかならない。。。なんだ、僕はただの人じゃないか。と思った訳です。

次の日は前述した様になぜか元気になっていました。もう僕は主人公ではない。世界中のほとんどの人にとって、僕の死は1%も影響しない。もしかしたら、新聞にもTVにも載る事はないかもしれない。帰国後考えてみると、そういうことを感じた様な気がしました。

自分の生きている意味がほとんどない。というとかなりダーティーな感を客観的には覚えますが、個人的には救われた感じがしました。だって、自分と世界はほとんど関係ないんだよ。自分の死が悪影響を与える事が無いことを喜んだのかもしれませんね。

それから10年以上月日が流れてようやく、先日自分の腑に落ちる形が見つかった訳ですが、生きていることに意味が無いとなってしまうと、やっぱり結局はダーティーな訳です。理由を求めるようになっていた訳ですね。

そう簡単に理由が見つかる訳がありませんが、それからは考え方が180度変わりました。第一に自分が生きているのは『偶然』である。という思考に変わりました。そして、運命とか神とかをいっそう疑う様になったように思います。

でも、基本的にはとても元気になっていますよ。スーパーマリオの無敵タイムみたいな感じですね。きっと自分の世界というところで主人公をやっているプレッシャーにたえられなかったのだと思います。

自分の生きている世界はひとつしかなく、その世界で主人公で居続けなければならない。それがとっても苦しかったんでしょうね。でも、死を体験して、世界はひとつではない。かつ自分は地球に比べたら塵にもみたない。という開眼にも似た諦めが精神を活性化させたのでしょう。

思いつきで提案。昨今いじめ問題が騒がれてますが、その解決策として、『死の体験』というのは駄目ですけど、小学生海外一人旅プランなんていかがでしょうか?やっぱり言葉が通じない環境で、己だけでもがき苦しむっていうのはとっても大事です。

まあ、それこそ『トゥルーマンショー』の様に親がしっかりと影から見守るべきだと思いますが、そういうなのはとても良いと思います。やっぱり、バーチャルではありますが『自分だけの力』で生きるということを知っているか知らないかというのはとても大きい。

実際問題そんなのは問題が山積みで社会的には認められないでしょうが、男親が思うあり方としては良いです。女性は絶対アウトでしょうけど。でも、ひとつの世界以外を体験させるというのはなかなか難しいものです。

話を戻し。とりあえず生きている事は理解しよう。それは仕方が無いし、自殺するのもなんか気持ちが悪い。でも、こんな燃費の悪い生命が例えひとつであっても存在するというのはあんまり良くはないんじゃないか。と考える訳です。

そして、取り急ぎ応急処置的に理由を当てはめていく。それは親のためとか恋人の為とか、子の為とか、生きられない人もいるんだよ。とかいうヒューマニズムであったり。自殺は殺人だとか、生まれた責任とか、これまでの責任とかなんとかかんとか。

結局、応急処置だから、その都度賞味期限が切れていく、(勿論人によりけりです。)そして次から次へと理由を取り繕い、様々なことに失望していく。『誰(何)の為にもならなかったんだ。。。』と。

現実的なものを当てはめていくと前述の様な期限があるからではもっと抽象的なものにしてみよう、使命とか夢とか希望とか、生きる意味を見つける為にとかってやつに。

そして、抽象的な意味を仕事にあてはめていくとそこには数々のエゴが存在せざる負えない事に気づく。しかしながら、仕事です。そんな甘っちょろいこといってられません。やるべきことをやれ。とか言っちゃう訳ですね。

なるほど、抽象的な事を理由にしてはいけないとようやくに気づく。抽象的な事とは己が主人公すぎて結局、死の体験前の世界に逆戻りしている訳です。そして、また悶々と考える日が続く。

そして、ふと思いついた訳です。なるほど私が生きている意味など(全体から考えればほとんど)ない。また優先順位から考えてみても低いし、日本なりの幸福とか生活を送る為には私個人よりも現ナマの方が即効性がある。私は出世払い的に未知数だ。

でも、今◯◯歳で現実に存在している訳だ。それを自分的にはそこまで悪く言えない。。。だから、せめて誰かの役に立つ事をしよう。???あ〜よくある。よくある。人の為にってやつですね。偽善的で好きじゃないけど、偽善じゃなければいいよね〜。と思う。

そうだ。勝手に人が気づかない様に、人の為になることをやれば良いのだ。しかし、具現化すると色々支障をきたす。。。でも、この際それには目をつぶろう。とりあえず、求められる求められないは大事ではなく、作る事が大事なんだ。と思う。

もう何年も生きてきたんだから、今更ながら生きていることに意味など無い。でも、死ぬのは気持ちが悪い。だから、せめて多くの人の為に、T.P.Oに合わせて生きよう。そして、自分が出来る事と言えば、ある程度何かを考えることである。

じゃあそれを武器にして。改めて 『生きている事の無意味さを認識し、そして意味をつくる』意味を作るというのは、意味自体も作る訳です。だから、これが私の生きる意味。誰もが考えるという事は出来る訳ですし、まあよくありそうな言葉です。でも私にはマッチしました。

という訳で、今日はこれぐらいにして、
皆さん『しっかり生きて!』
映画『おおかみこどもの雨と雪』より。
偉そうに失礼致しました。
色々あります。本当のことってなんですか?どなたか教えて下さい。
昨今の訳のわからない様々なことについて考えてみました。
頭の整理体操です。
お暇な方はお付き合い下さい。

わからないものには反応しない。→わからない=価値がない。
わかりにくいものに興味を持つ。→ただ興味しか示さない。(不安だから)
わかりやすいものは馬鹿にする。→新たなる流行を追い求める。

ただ、新たなる流行というわかりにくいものと
わかりやすいものの境界には飛びつきやすい。
みんなは理解していないけれどある程度の人たちは理解している。

わかりやすいもの=大多数、常識
わかりにくいもの=小数、非常識

まだ、誰も(大多数)がわかりにくいもの(非常識)
である状態というのは不安。→ただ興味は示す。

誰も(大多数)がわかっているもの(常識)
というのは面白みがない。→馬鹿にする→次を探す。

今までは、わかりにくい、わかりやすいの境界が
ぶつかった時
に流行が生まれた。
このぶつかった時を演出するのが『マス』という信用だった。

それ(信用)が情報(メディア)の圧倒的な増大に伴い、
マスではなく小さいレベル(口コミなど)まで下がった。
結果、ニーズ(ぶつかる時)は曖昧になりわかりにくくなった。

しかしながら、それは消費者が成熟した。ということなのだろうか?

情報が多くなりすぎたことで大きく混乱した。
結果取捨選択することが出来なくなった人たちは、
より一層わかりやすいものを求め、
かつ、自分は理解できないが、
自分より上の人が理解しているわかりにくいものというのが、
尊きものだと勘違いした。

成熟したのではない。諦めた、諦めざる負えなかった。
ただ本質は変わっていないのではないだろうか。

結局、
わからないものには反応しない。
わかりにくいものに興味を持つ。
わかりやすいものは馬鹿にする。

大きく変わったのは、わかるわからないを判断するのが、
『私』ではなくなった。ということではないだろうか。

いやぁ。わかった風な言い方をして書いてみましたが
なかなかわかりにくいものですね。。。
私より上の方、どうかわかりやすく説明して下さい。

では、
お洒落に話を置き換えてみましょう。

みんなに認められていないファッション→わからないもの
一部の人だけがしてるファッション→わかりにくいもの
誰もがしているファッション→わかりやすいもの

こうすると少しわかりやすくなった気がする。

要は、様々な事が叫ばれていますが、
結局私たち庶民は、その『流行』は作れないから、
自分で考えるしかない。ということですね。

ちゃんちゃん。



Less is more
 近代建築の三大巨匠ミース・ファン・デル・ローエは言いました。
「シンプルイズベスト。」っていうのとは少し違う気もしますが、
「より少ないことは、より豊かなこと。」だという意味のようです。

どんなものにも適切な状態というものがあり、
余分なものなく、かつ少なすぎることなく。
ものづくりだけではなく様々なことにおいてというより、
全ての事象において、適切というのは、ベストであり、
最良であり、ある種完全でもある。と私個人は思います。

 と、回りくどく書き下しましたが、
久しぶりの映画『サマーウォーズ』少しがっかり感は否めませんでした。
映画や小説その他もろもろのアウトプット事象、
それらを作る作者はほとんどの場合完成形まで積み上げるために、
徹底的にすべてを詰め込みます。
そして、そこから『厳選』とでも言いましょうか、
命を掛けて『編集』作業をしていくわけであります。

削るか削るまいかの命がけの攻防。
結果として、ダイヤモンドカットのように磨きぬかれた原石は、
何物にも負けない輝きを放つわけだと思います。

映画の場合はそれこそすべての違和感を解消し、
一切の違和感を感じさせることなくお客様に伝えることができるかどうかが、
とても重要なことだと思います。
現実的、ストーリー的リアリティなんていうのは二の次であり、
それこそ、間であり、繋ぎであり、台詞回し、
緊張と緩和が必要なわけです。

TV放映枠というのがあるので仕方がないのはわかります。
しかしながら、ちょっとちょっと、アニメだからですか?
子供向けっぽいからですか?
削りすぎじゃない?
あげくの山下達郎さんの『僕らの夏の夢』。
ちょっと扱いひどくないですか。

っと。たまらず速攻で愚痴をこぼしてしまいました。
もっと良い映画だったと思います。
興味をお持ちの方は是非ともレンタルしてください。
トトロ
 となりのトトロ。いい映画ですね。
8月は『サマーウォーズ』どちらも田舎を題材にした
映画ですが、表面の描き方は、20年と言う時間で
びっくりするぐらい変わってますね。
確かに現代の田舎?は『サマーウォーズ』的ではありますが、
(陣内家は例外ですが。。。)
私の心に残っている『田舎』というものは、
やっぱり『トトロ』のような田舎です。

今では世界に誇る日本のアニメーション。
昨今は様々な国でもトライされているようですが
ノンフィクション的物語性は、
『となりのトトロ』を見ていて、
改めて、なんとなくではありますが、
日本でしか出来得ないというような感を受けました。

トトロというものは、ある種『ティンカーベル』の様な
ファンタジーではありますが、
初めてメイがトトロに会うまでのシーンを見ていると、
「トトロいるんじゃね。」っていうような、
気持ちを抱かせてくれます。

そこは、宮崎駿さんの才能というのが大半を占めるのでしょうが、
いわゆる『自然』という天然驚異との私たち日本人の係わり方、
また、私の場合『田舎もの』っていうのがあるような気がします。

8月放送の『サマーウォーズ』もとても良い映画ですが、
田舎というものに関しては、やっぱり『現代的』な感を受けます。
もしかすると、トトロの田舎に共鳴できるっていう人は、
年々少なくなっているんでしょうか。

トトロの田舎には、静けさと温かみと切なさがあるような気がします。
どれかが欠けるだけでも雰囲気は変わるものです。
まだ、日本には残っているのでしょうか?
子供靴 まとめ2
続きです。 
漫画『スラムダンク』で桜木花道は3万本シュートを打ちました。
そして、流川くんは何十万本打ってきました。
その成果?が実を結び、山王工業に勝つわけです。

当たり前のことではありますが、
自分が出来ているつもりでいると(イメージの中で)、
その錯覚は、自ずとフィルターとなり、
現実を覆い隠します。

私たち大人が出来なかったのはなぜでしょうか?
欠けた原因は、どこにあったのでしょうか?

テクニックとは小手先の技です。
だからこそ華やかです。

プロの書道家は、一枚の書を完成させるまでに、
何百枚、何千枚の書を書くと言われます。
毎日の写経で日々確認し、ぶれていないように、
曲がっていないように努めます。

本物のプロの人たちが最も重要視している『基礎』を
私たちアマチュアが怠ったとしたらどうなるのでしょうか。
答えはとても簡単です。

さて、とても長くなりましたが締めです。
私たち人間にとっての『基礎』とは何でしょうか?
私たちが今、ここで生きている或いは、
このブログを見て頂くのには何が必要でしょうか?

「パソコン。」

じゃないですよね。
必要なのは『私』であり、それを認識する脳であり、
それを具現化している身体ですよね。

難しくなったので、そのうち噛み砕いて記載いたします。
子供靴 まとめ1
 ついついまとめるのを忘れてしまっておりましたので。
私が思うに大人と子供の違いは、完成か未完かです。
もちろん肉体的(生命体的)な意味においてです。

人間の細胞は1年で凡そ全てが変わると言われております。
今、体中(細胞含め)シリアルナンバーを入れたとしても、
1年後にそのシリアルナンバーはないということです(刺青は?というのは置いておきましょう。)。
まぁ、おおよそ、そういうことのようです。

しかしながら、私たちは日々の経過の中で、
永続的につながっているような錯覚の中にいます。
ですので、強引ではありますが、
ある意味で「私は変わらない。」と思うようです。

そのようにして、私たちはいつの間にか『大人』というボーダーラインを
通り越し、変わることよりも、補うことを求めるように、
頭を固く鍛え、そこに知識と言うノウハウこそが武器であるかのような錯覚を起こし、
様々なアイテムを捜し求めます。

そして、そんな『大人』たちを見て、子供たちは未完であることを忘れ、
『模倣』を始めます。(強制的、自主的は別として)

大人たちは、私の出来なかったこと、
また、私の出来ないことを子が持たないようにと、
自らの学び方(テクニック)を与えようとします。

最も大事なのは『基礎』です。
長くなりましたので、次に。


10%責任転換
らしいですねぇ。
皆さん一斉放射ですね。
反対反対の大号令は聞き飽きました。
どなたかちゃんと説明してくれませんかね。

じゃあどうすれば良いか。
冷静に具体的代案を述べてくれる人がいたら、
私はなんの迷いもなく、
その方に一票投じるんですけどね。

問題は何なのか、
どうもこの国の代表となる人々は
そんな当たり前の事をいつも棚上げにしてしまいますね。

国民性なのでしょうか。
iPhoneアプリができたので
ついつい愚痴です。
スタンプラリーグルメ
 ここ最近と言うわけではありませんが、
ラーメン屋さんが新しく出来ると、店構えにもよりますが、
数ヶ月は人の波が続いているように思います。

街のいたるところに、〇〇で紹介されました。
というプリントされた張り紙が目に付き、
「張っていないところはどういうことなの?」なんて気持ちにも少しなります。

TVで紹介されると長蛇の列となり、
店は大繁盛、昔からの常連さんは知らず知らずに無碍にされ、
食べつくされた『儲け』は、
もういらないと、アリさんたちは次の番組に移ります。

「あの店はおいしかったよぉ。」という発言に、
「どこそこはだめだったよ。」と答え、
頭の中に作ったスタンプマップにペタンペタン。
「次のお店はどこにしようかなぁ。」なんて、
日々更新されるマップをコンプリート。

味覚も千差万別ですので、
私がどうこう言えることではないですが、
そんな風潮に流されて、
『おいしいお店』がお店として判断されないのは、
なんだかとても悲しいですね。

私にとっての『お店』とは、
店主さんがいて、おもてなしがあって、場があって、
発見と成長があることだと思います。

人間1人を理解することも出来ない私たちが、
何万件もあるお店を『理解』するなんて、
きっとできっこないと私は思います。
ユニクロという習慣 続き
 続きです。
習慣と言うものは、とても不思議なもので、
その習慣が身についている人にとっては、
その行為に対して、ほぼ無心とでも言っていいほど、
何のためらいも違和感も生まれませんよね。

しかしながら、習慣になっていない人にとっては、
『一日一食生活』ではないですが、
場合によっては、その行為がとてもストレスとなる場合があります。

そのような意味で、日本の『おもてなし』や、
様々ないわゆる『文化』というのは、
外国の方からも賞賛されることが、多々あるようですね。

と、まぁそんな素晴らしい文化は、
人と人が係わる際の、ある種常識のようなものとして、
自分たちの習慣となっていきます。
スムーズにその習慣が実行できればなんのストレスも生まれませんが、
その習慣がほんの少し変わらざるえないとなると、
その時に皆様はどう感じられますか?

恐らく、大方が悪い意味でのストレスとなると思います。

ようやく話を戻せましたので、先日の続きですが、
世界的グローバル企業として、憧れの存在になった企業が提唱する、
普遍性として『在庫切れはありえない。』という感覚が身についてしまったら。。。

大げさな話だとは思います。
しかしながら、人と人の係わり合いの中で生まれた『おもてなし』という文化。
その習慣は強制力を強いるものではなかったと思います。

商売と言う中の習慣が『日本の文化』として、
浸透した場合に、私たちは『人と人の係わり』というものを、
かつてのように持っておくことが出来るのでしょうか?

どこか地方のスーパーで、
『ラー油』がないという事態に出会ったときに、
「じゃあ今日は、ごはんですよ。にしよう。」と、
笑顔で言ってってくれることを祈っております。
ユニクロという習慣
 「10年後世界一の企業に。」と、連日ニュース番組や、
特集番組が組まれ、日本代表グローバル企業として、
ワールドカップ以上に騒がれている感がありますね。

 先日、そんなユニクロの特集番組がやっていて、
その中で日本IDとして、接客サービスおもてなしを、
外国の人に教えていかにゃならん。
と、企業方針としての人材育成の方法が取り上げられていました。

店長職となる方々を日本で研修させ、
日本で培ったサービスを輸出する。
最近よく叫ばれていることではありますが、
日本の教育の販売ってやつですね。

その教育もなかなか難しいと言うことで、
上海のとある店舗が映っておりました。

そこでは、商品管理が徹底されていなく、
季節はずれの商品が並び、在庫が切れ、
「これじゃお客様が買えないじゃないか!」と担当者の方が仰っておられました。
まさしくその通りですね。

常に在庫が切れることなく、
いつ来ても買うことが出来る。
という魅力。

確かに、いつ来ても商品が揃っている。
不自由を感じることなく欲しい商品がある。
一切の不快感も感じることなく。。。

もちろん企業としてそれは、当然のことだと思いますし、
素晴らしいことだとも思います。
しかしながら、私は人間の感覚として、
そこに違和感を覚えます。

世界的グローバル企業として、
我国の代表として憧れを受けていくであろう企業。
その普遍性が、全国民に浸透したときに、
その『当然』ということは、
どのように次世代を生きる若者たちに影響を与えるのでしょうか?

続く。