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自問自答
 瞑想入門に連動してという訳ではありませんが、
何だかんだ、このブログを始めて
そろそろ3年近く経っているみたいです。

このブログの前から考えると、
私の個人的な発言をインターネットを利用して述べて、
6年以上が経過しているようで、
ちょっとこれを期にというわけではありませんが、
この行為について考えてみました。

読んで下さっている方の数はどうであれ、
社会とか世界とか大きな事を語ってみたり、
人間とは身体とは、考え方云々かんたら、
と、言いたいことを言って自分が『高尚』な人間にでも
なったような気になっている今日この頃ですが、
若干ながら、それこそ『これって必要?』なんて
気を覚える次第であります。

記録をつけるというのは悪いものではありませんが、
インターネットという他者とつながっている媒体で、
表現するというのは他者の評価を前提とした
行為だと個人的には思います。

だからそこには『他者からの批判』『意思』があり、
それを互いに共有する事で良きにつけ、
悪しきにつけ『アウトプット』する価値の様なものがある様に思います。

ところが、自堕落に6年以上もこういった行為を行っていると、
いつの間にか、自分はアウトプットをしている。
という気になっている様に感じる訳です。
この状態というのは、とても良くない。

他者と関わるという事は、
そこには何らかの関係性がある訳です。
その関係性はお互いに良きにつけ悪しきにつけ
『変化』、或は『成長』している訳です。
だからこそ、『次』の機会があるわけです。

例え付き合いの中で、具体的に得るものも失うものもなかったとしても、
時間というものは一様に経過している訳です。
本を開いたとして、最初の一文字を見続けられる様な人は、
ほぼいない訳です。
少なくとも、濁点程度までは目を通し、
それ以降続くのか、そこでやめるのか『変化』がある訳です。
そこには、本との関わりがあり、他者との関わりがある訳です。

ところが、ブログというのは少し違う様に思います。
勿論、解放されているという現実的な話がある訳ですが、
そこが問題だと、個人的には思う訳です。

解放されているという『イメージ』の中で、
『発言』することで、『関わり』同時に、
一方的に『主張』をしている形になっているわけです。
例え誰かを傷つけるような発言であったとしても、
或は喜ばせる発言であったとしても、
発している本人はあくまで自分の『イメージ』の中で、
『評価』を受けた気になっている訳です。
そして、他者と関わる事無く『成長』している気になっている訳です。
少なくとも私は、そんな気になっている様に思います。

それは、とっても『あま〜い世界』だと思う訳です。
一人っ子の子供がわがままに育つと言われる様に、
『放置』或は『自由』な環境というのには『ルール』が無い訳で、
その環境の中に浸かっていると、やっぱり、いつの間にか、
『馴染んでしまう』訳です。体臭とか、口臭とかね。

そして、気づかぬまま、
現実=『アウトプット』の環境に入っている訳です。
そうするとそこで『あま〜い世界』の『甘え』が出ちゃう訳です。
そして、頭の中で作った『黄金の知性』で現実に関わる訳です。
その『黄金』は現実的にはまだまったく
『磨かれていない石』だということにも気づかずに。。。


言い訳ではありますが、
私のブログに対する関わり方というのは、
『頭の整理ツール』としての使用のつもりだった訳です。
だから、話が飛び飛びだったり、始めと終わりで
書く内容が変わっていたりする訳ですが、
とりあえず箇条書きとまではいかないまでも、
書き出し、連想し、組み合わせる事で、
『スッキリ』していた訳です。
勿論、極力はわかりやすくしようかな〜という
気を配ったりもしてた『つもり』ではあります。

でも、きっとその『つもり』が良くない様に思う訳です。
その『つもり』に甘え、頭でっかちで、
『問題』に『対峙(戦う)』していた『つもり』になっていた様に思います。

だから、これからは、『ツール』として使わせて頂きます。
なので、恐らくとても読みにくい場合が多々ある様になると思います。
ですが、これはコメントを下さらなかった皆様にも責任がある訳です。

というのは冗談ですが、
少し書き方を変えてみようと思っています。
どうするかはまったく決めていませんが、
決まるまでは行き当たりばったりになると思います。

まあでも、今年は『トライ&エラー』の年です。
大目に見てやって下さい。

Mr.Children
『彩り』
http://www.youtube.com/watch?v=BprYDuumMks


わからないとは
 わからないことがわからない。
かつてニュースステーションの司会をしておられた久米宏さんの魅力は、
我々一般人のわからないがわかっているということだと
表現の違いはありますがそのように仰られる方が多くおられるように思います。

福山雅治さんが売れる為に脱却した日常というものは、
わからないことがわからない。ということで慣れていた日常なのだと思います。

とかく、何事においても日々は積み重なっているわけで、
はじめは慣れない作業でも、
時を経ることで当たり前の習慣に変わっていくわけですね。
かつては知らなかったことも、知ってしまい当たり前になってしまえば、
自身はそこから次の段階へ進んでいるわけで、
朝起きて顔を洗うように、完全に『当たり前』になっていくわけですね。

と、そのような当たり前の習慣のように、
当然私たちはそれぞれ当たり前の環境に常にあるわけですよね。
性別であったり、年齢であったり、
住まいであったり、趣味であったり。

そのある種普遍的であるであろう『私』の周りの環境というのは、
ほぼ多数決で決められることが多いように思います。
最近の例で言えば池上彰さんの番組がそうであり、
ファストファッションがそうであり、
牛丼250円がそうであるわけですね。

と、若干わかりにくいかもしれませんが、
何が言いたいかと申しますと、
私たちは複合的な社会にいて、
様々な境遇に接しているわけです。
その環境下にいるという認識だけは忘れない方がいいと思いますし、
忘れてしまうということは、
その環境からは抜け出せないということだと思います。

ですので、誰もがわかるような解説をされる池上彰さんは、
わからない。という私たちを正確に外から見ているわけですね。
当たり前の環境というのは常に多数決によって変わりうるわけです。
それって少しこわくないですか。

ちゃんちゃん。
ターゲット
 『造られたものを見ればそれを造った人間の環境がわかる。』
というような感じのことをある建築家が言っていました。

 本や映画、芸術や工芸品を見て感情を刺激されることがありますが、
その情動は歳を重ねるごとに多くなっていくように思います。
また同時に少なくなっていく場合も多いと思います。

「かわいい。」なんて言葉が流行っていましたが、
その言葉を聞く度に個人的にはイラッとしてしまうのも
若気の至りなのかもしれませんが、
言葉という共鳴手段が単一化されるのは
日本人として哀しい気もします。

と、若干話が違うのかもしれませんが、
男女、老若、国籍など様々な環境によって、
感じ方が違うのは皆様ご存知のことだと思います。

良いも悪いも、好きも嫌いも、
正義と悪もそれぞれによって違うわけですね。
ただ単一国家である私たち日本人は、
その認識が隣接する国を持つ諸外国とは明らかに違うのでしょう。
だからこそ育まれたものもあり、
また固執したものも多くあるわけですね。

私たち日本人は凡そ多くの人が、
経験、趣味趣向は別として同じものに感銘を受ける様に思います。
それが良いのか悪いのかは両面あるわけです。

最近皆様にお勧めしている映画『カラフル』を
私がお勧めしない人たちは様々に歳を重ねてこられた尊敬する大人の方々です。

だからというわけではないですが、
昨今の若手映画監督や、若手作家の作品が、
『大人』の方たちが同じように楽しめるのかは疑問が残る訳です。

ちょっと面白そうな話なので続ける予定です。
村八分

IT技術の発展と共に、
恐ろしい速さで変化する経済市場ですが、
ある意味での明快さとは別に、いわゆる道理というやつでしょうか、
陰の要素がプンプンと日に日に臭いを強くしていきますね。

EDIシステムってやつですか、
web上でのトータル管理ってやつが、
「なんでもあります。」
「どこよりも安く。」
って謳い文句を高々と掲げ、
明快なわかりやすさが、松坂屋のように、
日本を侵食し始めているようです。

そのシステムの中では、様々なモノが単純化し、
PB商品のようにコストカットの影響が
様々なところで殺し合いを起こさせます。

その戦いに漏れたもの、或いは参加することすら出来なかったモノ達は、
徐々に朽ちるか、屈辱を抱え耐え続けるしかないように思います。

最近では、メディアが景気上昇をうたいだしました。
感覚的には必要なことではありますが、
明日の危機を考えるのも当然ですが、
来年の危機は、明後日に迫っているかもしれません。

ガラパゴスと言われる私たちの国ですが、
それはある意味でマルコポーロの見つけた『ジパング』でもあると思います。
世界標準と言う目標設定はもちろん絶対に必要です。

しかしながら、本当に足元は安定しているのでしょうか。
村八分とは強制です。
いつの間にかあなたたち(日本)はいらないよと言われる可能性が、
国債も含め増え始めております。
しかしながら、私たちはまだまだ戦えるはずです。
まずは、「自分は何のために、或いは何をしているのか。」
もう一度みんなで考えられたらいいなぁなんて、
ちょっと未来を心配してみました。

生き方
JUGEMテーマ:日本の文化
 昨日からの続き。
『死ぬときから始めませんか?』
決してネガティブなことではなく。
あくまでも肯定的な始まりのつもりです。

マヤ暦で言うところの世界の終わりが2012年に来るかどうかは置いておいて、
たまに話題に上るような「最後の瞬間あなたは何をしますか?」
出尽くしたような質問ではありますが、
その質問がどうと言うことではなく、

「その時あなたを取り巻く環境はどのような環境でしょうか?」

私の描く理想は、
よく晴れた、夏の終わり、
縁側の先に少し広がる庭には、温かな日が差し込み、
一日が生まれるように徐々に空気が温度を帯び始めている。
10畳ほどの和室の真ん中に広げられた布団の上で、
ゆったりと、時が来ることを感じている。

そこには、長年付き合ってくれた愛する人がいて、
昨夜の看病疲れの影響か、かすかな寝息を立てて寄り添っていてくれる。
ゆっくりと流れる時間の中で、
整理された室内には、お気に入りの掛け軸と、
30cm程度の白い磁器に華が生けられている。
生涯を共にしてきた愛着の品々は、
今日までと同じように、
クローゼットに掛けられていたり、
宝石箱にしまってある。

散歩が好きだった私が必要とばかりに買い求めた革靴たちも、
シューズキーパーをはめて私がまた履くことを待ちわびていてくれているようだ。

と、人間にとって何が贅沢なのかはわかりませんが、
今の私にとっての思い描く理想の未来はそのような環境でありたいと思います。

回想が長くなりましたが、
あなたにとってのその瞬間とはどのような時間が流れているでしょうか?

まだまだ具体的には思い浮かびませんが、
その瞬間に私は愛するものたちに囲まれていたいと思います。

その瞬間まで、私と共にいてくれるもの。
人から見たらくだらないものだと言われようと
自分にとっては必要だったからというもの。

それが私にとっては必要なものだと思います。

というのが私が提案する『死ぬときから始めませんか?』という提案です。
死生観
JUGEMテーマ:日本の文化

 以前、何かの番組で三輪明弘さんが三島由紀夫に関しての話をしておられました。
その内容は、「三島は切腹する場所を探していた。」というようなお話でした。

 おおよそが美談として現代まで語り継がれている、
つい150年ぐらい前の過去の人々は、様々な状況の中で、
死ととても密接だったと言います。
環境的要因、社会的要因など様々だったそうですが、
いつか必ず来るその日の為に、
人々は様々なことを受け入れ、
また準備し、次なる人の為に生き続けたのだと思います。

 そんなお話を聞いていて、
私は何も準備をしていないなと感じました。

そこで、いつか必ず来るその日に、私は美しくありたい。

その為にはどうすればいいのか。

きっとそれを三島由紀夫は探していたのだと思います。
また、私たちを残してくれた祖先たちは、
きっとそうだったのだろうと信じています。

そこで私が提案する生き方とは。
『死ぬときから始めませんか?』
という問いかけです。

初めから長々書くと読んで頂けそうにないので、
続きはまた今度。