農家のあり方について素人なりに思う所を綴ってみる。
収穫された農作物が破棄されているというのは本当だろうか?
まあ、本当だろうけど、それをベーシックインカムとして
利用する事は出来ないのだろうか?なんてことは、
きっと考えられていることだと思う。
例えば農家にも小規模、大規模様々あるだろうが、
一人の人間が一ヶ月に必要な農作物を手に入れるのには
何平方メートルの農地が必要なのだろうか?
勿論、収穫時期や気候状況を別にして。
仮に一農家の畑or田んぼが100平方メートルだと設定して、
1人の人間の月に必要な量が8、3平方メートル分だとする。
そうすると、その農地へはいくら払えば、
1ヶ月使用する事が可能なのだろうか。
仮の設定で考えると100平方メートルの農地があれば、
1人の人間が1年間食べられる農作物が1つの農家でまかなえる。
勿論、収穫物の量と農地の量が比例しているかは置いておいて。
農家さんが農業を生業として生活を行う為には、
最低限いくら必要なのだろうか。
勿論、土地によりけり、人によりけりだとは思うが。
仮に300万円を設定するとすると、1平方メートル辺り、
3万円の売買が必要になる。では、
1平方メートル辺りの収穫量はどれぐらいなのだろうか。
勿論、運搬費や種、肥料、管理費などの費用が必要ではあるが、
正確な数字はいかほどなのだろうか?
正確な金額はひとまず置いておいて、
昨今では、企業や飲食店が農地を買う事が多い。
実質的にはレンタルのようなものかな。
企業や飲食店は農作物を買い取りそれに利潤をのせて売る訳だが、
実際の農作物の金額はいくらなのだろうか。
なんとなくこの金額設定がタブーな気がする。
企業や飲食店が直接取引を行うのは、
当然ながら自社の利潤を上げる為である。
企業や飲食店以外で農家と契約する事は出来ないのだろうか。
当然出来る。
具体的な農家さんとの契約はいかほどなのだろうか。
それを10人、20人のコミュニティで契約し、
生活に支障のない範囲で、食料購入する事は出来ないのだろうか。
1人、2人であれば、金額設定にもなかなかこぎつけないが、
最低保証はいかほどなのだろうか。
勿論、すべての人が農作物のみで暮らす昨今ではない訳だから、
食費が直接取引のみで浮く訳ではない。
ただ、八百屋さんやスーパーで売られている金額には疑問が起こる。
ただ、実際の所、落下リンゴの話に限らず、
風評被害の農家さんはいかほどで買い叩かれているのだろうか。
売っても売っても実入りにはならない。
それであれば、代理店を通さず個人取引は出来ないのだろうか。
当然、やっているところもある。ただ、公にはなりにくい。
だからスーパーや八百屋ではなく、
直接取引を請け負う代理店がweb上に様々ある訳だが、
結局そこにもマージンは発生する。
そして、仕事としても成立している。
それを破壊したいと言っているのではない。
でも、わかっちゃうと破壊されちゃうんだろうな。
残念ながら、目に見えない一括管理の代理店には、
農作物だけでなく、電気でもブランド品でも信用がなくなってしまった。
だから正直な話疑ってしまう。妥当な料金開示があり、
その上での流通コストや管理費が明示されないと、違和感が残る。
ある意味で残念な事ではある。
しかしながら、買い叩かれている農家さんもいるという
大義名分を掲げるというのは卑怯な話だが、
いわゆる『納得の価格』というのが疑わしい。
でも、同時にそこに様々なマージンをのせる事で
市場は成り立ち規模が拡大したのだろう。
単純に提案なのですが、風評被害で買い叩かれている農家さんと
3、40名程度のコミュニティでの直接取引を行う場合に、
農家さんも生業となって、3、40名も最低限飢餓に
陥らないやりとりを行うには、どれぐらいの農地規模と、ど
れぐらいのコストがかかるのでしょうか?
それがお互いに妥協点を打てる設定とはどれぐらいなのでしょうか?
色々と煩雑な事情もあると思いますが、
お互いが『生きる』ことが絶対事項だと考えれば、
団体での農地契約、マージンを取らないで行える仕組みというのは
意外と簡単に出来そうな気がするのですが出来ないものなのでしょうか。
勿論、農業は自然との戦いでもある訳ですから、
決められた量が絶対的に出来る保証というのも難しいとは思うのですが、
ファンドの様な形を借りて行う事は出来ないのでしょうか?
少ないときもあれば多いときもある。同時にいらないときもあれば、
困っているときもある。
基本的にどんなものでも、我々はストックや欠損の可能性を考え、
コンプライアンス問題の様に、何かにつけ
『できなかったらどうしよう』を言い訳に、
無駄なものを大量に作ってきた様に思います。
しかしながら、目に見えるコミュニティで会話する事はやっぱりできないのでしょうか。
坂口恭平さんの『独立国家の作り方』中にもありましたが、
仮に誰も所有していない土地に、たくさんの食べ物がなっていたとしたら、
それを譲り合い、共生することは出来ないのでしょうか?
10人いたとして5つしか食べ物がないなら、
半分こにすればいいし、それが駄目なら後にすれば良い
でも、今の社会は10人いたら、とりあえず50個或は
100個用意しとけばなくなることはないだろうと考える。
で、余ったものは『ゴミ』にする。農作物は絶対に腐る。
そんなこと考えちゃいけないみたい。
別に正規で流通している農作物を安く売れ!
と言っている訳ではない。なんで余らすの?
なんで捨てるの?といっているだけである。
『もったいないおばけ』に食べられちゃうよ。と思う。
だから、余ったもの、捨てるものぐらいは捨てる前に、
動物達の保健所みたいな場所を作ってもいいじゃないか。
それで、農作物の値段が下がるとしたら、TPPでなんて勝ち残れない。
てか、それぐらい寛容になろうよと思う。
でも、きっとそれじゃ正規で買うのがばからしいとか、
違法な取引が横行するってなるんだろうけど、
じゃあ、君たちの生活水準を確保する為に弱者は。。。
という話なのか。って話にすると良くないね。
問題を探そうと思えば、問題なんていくらだって作れる。
要するに何が大事かって話だ。自分の生活水準の確保か、
他人の生かである。きっと社会は数年で混乱していくのだろう。
だから、その前にせめて『譲り合う気持ち』ってやつの
リハビリを行う必要がある様に思う。
みんな自分が弱者になったら、そんなことを言い出す。
偽善だろうがなんだろうが、人として何が大事か、
残念ながら経済競争に敗れた私たちが生きる『幸福な生活』というのは、
身近な所にあるが、それももうじきつぶれそうな気もする。
利他性の成熟度が問われている。なにが大事なのか、
何を大事にしたいのかが今後のあり方だろう。
生きる為には衣食住が必要である。
裏を返せば衣食住があればまかなえる。
衣食住を私たちは色んな形で装飾しすぎた。
デザインが見た目だけに走る様に、見た目だけにお金を払う様になった。
デザインとは装飾なのか?そうだとしたら、
『必要』とした『理由』は何だったのだろうか?
パーティーに参加する為には、宝飾品が必要かもしれない。そ
の宝飾品には華やかなデザインが必要なのかもしれない。
しかしながら、パーティーに参加しない人に宝飾品は必要なのだろうか。
畑仕事にネックレスは必要ですか。
でも、たまには『誰かに見せたい』。
そして、パーティーには参加しないけどパーティーに参加出来る
『資格』の様な『気分』が欲しい。
かつて『茶の道』は華やかさを極め、それを利休が戒めた。
その『わびさび』に日本人は共鳴した。
きっとそこには、『私』という自立した存在があったのだと思う。
残念ながら、利休は『美術館』に展示される様になった。
恐らく西洋でのデザインは鑑賞するものであり、
貴族達の為にあったものだと思う。
しかしながら、日本では、民衆の機能として磨き上げたものであったと思う。
私たちは民衆である。貴族ではない。
民衆は民衆の生活を『幸せに』送ろうじゃないか。
だから、『もったいないおばけ』が表れる前に、
とりあえず、余ったものや捨てるものは、
捨てる必要がないかもしれないから、
『ゴミ箱』じゃなく『ざる』にでも置いておこうよ。
そのざるに置かれた『食べ物』で救われる命があるかもしれないし。
それを涙して喜ぶ人がいるかもしれない。
ま、個人的には偽善的行為だとは思いますが、
どんなことでも偽善的行為である。
ベーシックインカムのデザインは、
装飾ではないことを祈る。
まったく関係ありませんが、
映画『桐島、部活やめるってよ。』
そこそこ面白かったですよ。