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ただのお知らせです
 久しぶりにブログを書きますが、
ただのお知らせですのであしからず。。。

というわけで、これまで1日1食生活や瞑想など、
個人的にはそれなりに健康に気を使ってきたつもりではありますが、
何事も食から。。。

ではないですが、最近はまっている"グラノーラ”に関して、
ブログを作りました。

ごぼうと同様で私の身体とは相性ばっちりなのか、
グラノーラを食べる様になってからは快便続きです。(笑)

快便が良い事なのかはわかりませんし、
+して、おならの回数が確実に増えた。。。
というのは、ショックを隠しきれませんが、
代謝効果という意味では非常に有益なのだろうと、
前向きに考えております。

1日1食生活の時にも感じた胃の状態、
消化作用などというのは、身体的にも様々に影響してくるようです。
そんな細かな話は特にしておりませんが、
もし、よろしければ、覗いてやって頂けると幸いです。

こちらのブログでは引き続き、
ツイッターの連携や、たまにはお勧め映画なども書こうかな。。。
と、思っておりますが、あくまで気まぐれでございます。

これまでと恐らく更新頻度や内容に関して、
変わる事はないと思いますが、
定期的に覗いて頂いた皆様、
本当にありがとうございました。

今後は、出来れば以下ブログを読んで頂けるとうれしく思います。
何卒、よろしくお願い致します。

グラノーラ開発日記
http://k-granola.hatenablog.com/
村上隆著『創造力なき日本』を読んだ。芸術とは万人が容易に理解出来るものではないのかもしれない。
 『本物のアートは万人を魅了する。』

アート(芸術)というものがどういうものなのかは
正直わかりませんが、村上隆さん著『創造力なき日本』を読んで、
といってもまだ冒頭ですが。。。なんとなく思う所があった。

芸術=(情報量+物語)ー風化

数学が出来る訳ではないので、
誰でもわかる数式になってしまうのが悲しいですが、
現段階では自分の芸術の判断指針としてはわかりやすい気がする。

•情報量とは
作品にかけた時間、想い(情熱)、コンセプト、理論、
地位、プレゼンテーション(営業)

作品に着手し完成、出荷(販売)するまでに掛けられた作者の力。
モノによっては、出荷後も増やす事は可能。

•物語とは
時代背景、評価、風評(口コミ)、露出度

作品が出荷され、世に出た後の社会的浸透力。

•風化とは(物語に連動)
年月、価値観

出荷され時間の経過と共に変化する鑑賞者の感性(知性)

なんて、偉そうな感じを思いました。
情報量とは、『モナリザ』を最後まで、撫で続けたと言われる
ダヴィンチの執念にも似た作品へ掛けた時間であり、
村上隆さんの仰られる『お伺いを立てる』と言った
プレゼンテーションであり、理論(戦略)。

物語とは、出荷後、世間が回す『勝手な評価』であり、
作者の意図とは別の所で想像が膨らませられる意味付け。
映画『おおかみこどもの雨と雪』とか、
『桐島、部活やめるってよ』などで、
監督の意図とは別に盛り上がった話のようなもの。

風化とは、単純に年月。時には、寺社建築の様に、
風化と共に剥げ落ちた『けばけばしい』色彩や、『歴史』。
革命的、異端な物事が起こった後で、
ようやく世間が馴れるまで掛かった時間。
音楽配信サービスやインターネット産業。

情報量は作者が作った過程であり、
それがマイナスになることはないが、
物語や風化は時に+にもなり、−にもなる。

と、日本人の感覚で芸術というものを考えると
こんな数式が当てはまりそうな気もしたが、
実際問題どうなんでしょうね。

でも、昨今の園子温監督を筆頭に、
徹底的に取材された膨大な資料(あくまでイメージですが…。)や、
村上隆さんの仰られる『現代美術』の見方などを伺ったり、
映画や小説などで流行るタイトルの『年齢層』を見ていると、
『芸術は万人に理解されるものではない。』
のかもしれない。なんて思う。

『神』という超抽象的な矛盾だらけのイメージの様に、
『芸術』にも様々な価値の形がある。

ただ、個人的に思う事は
園子温監督の様に『超』過剰な表現であったり、
村上隆さんの様に『超』オタク的?な
『革命的(異端)』破壊力(膨大な情報力)を詰め込んだ作品しか、
物語や風化がもたらすマイナスの力に耐える事は出来ないように思う。

きっと、10年という年月が−100点ぐらいの影響があるのだったら、
現段階で『世間の評価』はどうであれ、
200点以上の作品を作らなければ、
10年後も評価される事はないのだろう。

そして、何十年後、何百年後先なのかはわからないが、
あるポイントを境に、『歴史的な作品』へと変化するのには、
200点でも足りないかもしれないんでしょうね。

ほんと、『アーティスト』を私は尊敬します。

まだ冒頭ですが面白そうな本ですよ。



おすすめの本 岡田斗司夫著『オタクの息子に悩んでます』
ほんと、ただの勝手な宣伝ですが。

岡田斗司夫著『オタクの息子に悩んでます』
これは名著。本当に面白いと思います。

1日1食生活でたどり着いた方、
映画『この空の花』でたどり着いた方、
このブログに好奇心を持って、
2回以上訪れて下さった方であれば、
間違いないと思います。

でも、こういう人がいるんだ。
と、知る度『なにやってんだろ。。。』
って思っちゃいますよね。

爆笑しながら、すべての悩みが解決する!?


天邪鬼から『天のJack 』へ 天邪鬼の時代が来た
 『愛の反対は憎悪ではなく無関心』というマザーテレサの言葉が、
今の時代を象徴しているのか最近よく耳にする気がします。
『臭いものに蓋をする』という言葉と一緒で、
私を『不安定』にするものというのは、
理解出来ないからこそ『パンドラの箱』の様に
畏怖の念を抱くのでしょうね。

先日、夏野さんのブロマが放送の中で
エヴァやガンダムが『嫌い』というお話がとても面白かった。
『嫌い』というのに徹底的な理由がある。
その『嫌い』は、巷に溢れている嫌いというイメージとは
違う明確な『意見』としての嫌いを感じた。

『嫌い!』と言いながら、細かな話は広がり、
『そんなとこまで…。』的な感想を抱かせる。
巷に溢れる風評被害やツイッター上に溢れる
『炎上』というやつには、なんの『意見性』も感じない。
嫌いな事には『理由がある』

俯瞰することが必要だと、いつかのメガネの総理大臣以降、
『俯瞰』という言葉が少しずつ浸透している気がする。
個人的には『嫌い』だからこそ、『見えること』があり、
『好き』だからこそ『盲目』になってしまうことが山の様にある様に思う。

いわゆる『天の邪鬼』という姿勢ではあるが、
天の邪鬼は今の時代にフィットしていると思う。
でも、天の邪鬼という言い方はあんまり好きではない。
だって、なんと言うか少し『悪者』な感じがするから…。

日本のアニメとか特撮では『天の邪鬼』というのが、
多かった様に思う。
ベジータとか、シャドウムーンとか、ダースベイダーとか。
でも、いつも最後には負けたり、残念な目に合う。
『愛(純粋さ)が地球を救う』

でも、私が言うのもなんですが、
今の世代は『天の邪鬼』を愛している様に感じる。
破れていくベジータを乗越え、ルークよりも偉大な
ダースベイダーとなったアナキンに憧れる。

きっと『純粋さ』という考え方が変わったのだろう。
かつては『ひとつのこと』を突き詰めることが
『純粋なこと(子供心)』であった。
しかし今は『俯瞰した姿勢(大人の姿勢)』が純粋さを包み込む。

『大人』ってやつは難しいもんですが、
酸いも甘いも極めたからこそ『見える』ことが多分ある。
酸いだけを舐め続けたり、甘さだけを
求め続ける純粋性の大半は『自堕落』を生む。

勿論、徹底的に突き抜けた人というのは別の話で、
それが茂木さんが仰る様な『突き抜けた人』なのだとは思うが、
大半は突き抜けられない。
また、突き抜けた人だらけだと制御が効かない。
そこで必要なのが、ベジータでありダースベイダーであると個人的には思う。

だからというわけではありませんが、
これからの時代は『天の邪鬼』の時代。
純粋ゆえに『疑い』『嫌い』『破壊する』。
そして、徹底的に破壊し、その破壊の中の『光』を見いだす。

きっと『光』というのが、
どんなものにでも混ざっているのだというのが
これまでの考え方だったのかもしれない。
でも、本当はどんなものにも『光』がある訳ではなく、
『光』は作られていくのかもしれない。
なんて、少しキモイ感じ。

もしかしたら誰でも『世界にひとつだけの花』なのかもしれません。
でも、その『花』に『価値』があるかどうかは
誰が決めるのでしょうか?
野に咲く奇怪な花も『花』であるのは確かです。

個人的には『奇怪な花』にこそ興味を持つ訳ですが、
『美しい』とされる『花』は何でしょうか?
結局の所、純粋さなんてものは疑わしいものであると、
少しブラックな方向へ…。

でも、と少し言い訳を述べさせて頂くと天の邪鬼がなぜ
『天の邪鬼』かというと、それは、前述した様に『
信じたい』もしくは『好きになりたい』からこそ『疑い』『嫌う』訳です。
『お前はそんなもんじゃないだろ?』ってね。

『全能の神』になんて誰にもなれないし、
『全能』という言葉自体が現状社会の中ではありえないわけであり、
ありえたとしたらとても気持ちが悪い訳で、
人間や思考なんてものは一切必要なしになってくる訳です。

みんなが同じ『愛』の下、『同じ愛』を繰り返すのならば、
それは『愛』なのか…。っていう話はやめにして、
ベジータは戦い続け、アナキンは悩み続ける訳ですね。
そして、いわゆる『悪』の道に行く訳ですが…。
とまた、話がズレてきました。

戻り『お前はそんなもんじゃないだろ?』というのが
『体罰だ!』とか『怠慢だ!』とか言われる訳ですが、
そういう『愛の形』っていうのは伝わらないもんなんですかね〜?

要するに100%完璧な人間なんていない訳で、
100%完璧というのは人それぞれ違う訳です。
あなたにとっては100点の人も、
誰かにとっちゃ20点にも満たないかもしれない。

でも、『あなたは100点ですよ〜。』なんて言っちゃうと、
その人には伸び代がなくなってしまう訳で、
あくまでも『あなたにとっての100点でしかない。』

会社とか家族とかっていう動物園の『猿山』だけが
あなたの住む『世界』なのならばそれで良い。
しかしながら、幸か不幸か『猿山』は現代人によって
『破壊され』『侵略』されました。
そんな時に『100点ですよ〜』なんて言ってられるのはどこの誰でしょうか?

『お前は今は20点だけど、こうすれば40点を取れるかもしれない。』
『てめえなんかは0点だ!』って言われることで、
馬鹿さ加減に気づくかもしれない。って、
そういう社会が良いかどうかは置いておいて、
『天の邪鬼』のスタンスというのはそういう
スタンスだと個人的には思う訳です。

だから、『天の邪鬼』って言葉が良くない。
良いネーミングが浮かびませんがとりあえず
『天のJack』ぐらい適当な感じにしてみるのも良いかもしれない。
『邪鬼、邪鬼』言われるのも、
『純粋』ゆえに時にはつらかったりするもんです。

でも『天のJack』達は、それらも受け止めた上で
『疑い』『嫌い』『破壊』する訳です。たぶんきっと…。
だから『天のJack』を批判する前に、
その事象に対し自分自身が『疑い』『嫌い』『破壊』し
『理解する』ことが必要なんだと思う訳です。

要は愛だよ。愛。
 神は細部に宿ると言う。
その神のオーラは全体を包む。

東京駅丸の内口の駅舎が生まれ変わりました。
っていうのを通りがかりに見ました。
まだまだ今は、北朝鮮の超高級ホテルと一緒ですが、
その部屋に明かりが灯り、月日がたつにつれ、
表情を変えていくレンガや漆喰の美しさが
保たれ続けることを祈っております。

昨今では、防災対策や震災対策として、
建築条例が年々厳しくなっているそうで、
木目の表情は、コンクリートにプリントされ、
美しい梁にはボルトがねじ込まれています。

木造がだめな理由はわかりました。
であれば、コンクリートとかボルトが
美しく見えるようにしてあげたっていいんじゃないの?
って、個人的には思います。

日本の社寺建築の美しさは風化の美であると
個人的には思います。

要は『愛だよ。愛。』
生き続けるのは人間だけではない。
記憶や物語やそのモノでもあると思います。

って、なんだか最近そんな気分。

圧倒的な素晴らしさ『庵野秀明 特撮博物館 巨神兵東京に現れる』
 練度の違いは1本の線の引き方にも表れる。

お買い物でも、展覧会巡りでも
基本的に私の所有時間は引かれるほどに短いようです。
ウインドウショッピングは無料だから別として、
美術館などは時間に関係なく1000円前後かかってしまうわけですが、
ほとんどの展覧会の所有時間は15分〜20分がアベレージです。
って、まったくもって自慢にもなんにもならない訳ですが。。。

そんな私がこれまでに所要時間が2時間弱、
また、もう一回行こう!と思った展覧会があります。
それは、大徳川展と東山魁夷展。
特に大徳川展の素晴らしさはテンションが上がりすぎて、
当時はまったく言葉にできないぐらいでした。

と、そんなどうでも良い話は置いておいて、
久しぶりにきました。
『特撮博物館 巨神兵東京に現れる』
後の予定があった為1時間強で出ざるおえませんでしたが、
次の予定に遅刻してでも踏み止まりたいと思わせる素晴らしさでした。

巨神兵が一番の話題になっておりますが、
個人的に感動したのは『圧倒的な造形力』。
巨神兵は展覧会の一部であり、
多くの特撮映画に使われたミニチュアやドローイング、
ウルトラマンとかゴジラとか、男の子にとっては、
興奮間違いなしのお宝の数々。
精巧に作られた電柱や破壊された国会議事堂、
なによりも素晴らしいのは、
江戸や明治などの異世界ではなく、
『昭和の日本人』がそれらを作っていた。
考え、描き、具現化してきたということに尽きると思いました。

マグマ大使のロケットはスタルクを彷彿させ、
『スタルク、パクったんじゃね?』と思わせ、
成田亨のデザインは『ウォーホール?なんぼのもんじゃい!』
って、個人的に思わせるぐらいに美しくかっこいい。
ミニチュアの数々も思わず手を伸ばしたくなるほど
妖艶なラインを描き、
『ポルシェ?ウルトラマンのヒップラインを見よ!』
とか、もう本当に素晴らしい造形品の数々でした。

と、そんな興奮を羅列しても仕方ないですが、
本当に素晴らしい展覧会でした。
ただ、作品群の素晴らしさは語り尽くせないし、
庵野さんのキュレーション力も素晴らしいと思いますが、
展覧会として、東京って場所でやるには、
各部屋の狭さったらありゃしません。
その狭さの理由も勝手に意味を見つけたりはしますが、
きっと、土日とか最終週とかはひどいことになるんだろうな〜。
と思いつつも、初めて2700円も出して、
展覧会図録まで買ってしまうぐらい感動し、
皆様にお見せするにも恥ずかしい様な、
稚拙な日記を書きたくなってしまう様な本当に素晴らしい展覧会でした。

『日本人よ。これがデザインだ!』って言えるぐらい、
『アップル?i phone?このアールがね〜。。。』って言えるぐらい、
美しく、かっこいい『デザイン』がここにあります。
圧倒的な『美術品』の数々、日本人なら知るべきです。
きっと日本が好きになります。

なんて、少し熱くなってしまいましたが、
日本橋三越で行われている『日本伝統工芸展』に
出展されている作品の数々も素晴らしかったです。
ただし、展示計画は最低。
また、『アート(ナイト)アクアリウム』も最低。
トピックスで見たときは『なんて美しいんだ!』って思ったのですが、
二つとも、それぞれの作品に対する『愛情』が絶対的に低い。
と、あんまり文句は言いたくなかったのですが、
あまりにも、『愛情』と『感動』に溢れた
『特撮博物館』を観て、
『やっぱり日本人はプレゼンテーション能力が低すぎる。』
なんて偉そうなことを思うのでした。

ほんと良いから、行ける人は是非行きましょう。
男の子でこのブログを読んで下さっている様な人で感動しない人は
絶対にいないはず!『行かないやつは、馬鹿だ!』

『館長庵野秀明 特撮博物館』
http://www.ntv.co.jp/tokusatsu/

『日本伝統展』
http://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/dentoukougei/
展示の仕方に異常な腹立たしさを覚えますが、
作品のクオリティの高さは圧倒的です。

『アート(ナイト)アクアリウム』
http://h-i-d.co.jp/art/
とりあえず、撮影は禁止にしようよ。。。
もっと出来るはずという期待を込めて。
10年間顔にあったガラスを想う
ものの価値はなにで決まるのでしょうか?

10年前バイク事故を起こした時に
顔に突き刺さったガラスが顔からとれた。
ただのガラスだが、10年間も『常にあったもの』ということに、
なんとなく感じ入ったりする。
ただの車のガラスなわけだが。。。

プレスリーだか誰かのブリーフが、
最低落札額の設定の影響で落札こそされなかったそうですが、
64万円近くの価格まで競られたらしいですね。
だからなんだって話ですが。
相手は『プレスリー』ですし。。。

真珠は貝の内側に『たまたま』入った『異物(wiki参照)』を
分泌されたミネラルやカルシウムが幾月も異物を覆うことで形成される。
年月が作り上げる『偶然の産物』であったわけである。

熟成されたものはやたら『高価』に『深み』を帯びる。
もしかしたら『1980年』は『偶然の産物』だったのかもしれないが、
『経過した過去』は、思い出の数だけ深い味わいになりそうだ。
というか、なってくれないと困る。
だって、ビンテージは高いものが多いから。

なんて、つぶやきの様なお話であり、
はっきり言ってなんの価値もない『ガラス』ですが、
個人的には少し愛しくも思える。

また、場合によっては、
『ターニングポイント』として設定する事も出来る。
要は『たまたま』だ。
と、そんな気がした。

でも、個人的には、『寄り添った年月』というのは、
とても価値を持つ様に思う。
だから、偶然であったにせよ、
顔に刺さった『ただのガラス』にも、
価値を想う。

でも、この価値は私だけのものでしかない。
評価経済社会は一発屋の味方である。
 評価経済社会のビジネスモデルを考えてみる。
評価経済というのは、端的に言うと売るものが
『もの』から『人』に変わった事だと理解しております。
間違ってたらごめんなさい。

『もの』というのはサービスなども含み、
『人』というのはブランドなどの付加価値も含みます。
価格に置き換えられやすいもの『対価』の様なものが
付きやすいのが『もの』であり、それが見えにくいものが
『人』の価値であり、評価経済のあり方だと推測している訳です。

『もの』を売って商売をするということに変わりはありませんが、
その価値のランク付け『価格設定』が、ものの『質』ではなく、
『評価』に変わったという事ですね。
極端な言い方をすると、モノどうこうはどうでもよく、
それよりもそれを評価している環境が大事。
『裸の王様』が大事ということですね。

勿論魅力という点はあるわけです。
それは今までの流行=『評価』というものは、
自分たちで判断しているという『思い込み』があった訳ですが、
実際の所メディアの刷り込みであったことも多い訳ですね。

ちゃんと自分たちの評価軸で『質』を見抜いていたと感じていた訳ですが、
本当はそうではなかった訳です。
なるほど、評価経済社会とは、もともとあったものであったが、
その認識が大きくなってきた社会ということなのかもと、今更気づく。

ま、そんなことは良いとして、要するに『評価』しているものが、
新聞、TVなどではなく、口コミやSNSの様な感覚的に近いものの方を
『重んじる』という様な社会になってきた訳ですね。

それには長所も短所もありますが、
とりあえず長所を見てのビジネスモデルを考えてみた。

『評価』しているものがTVなどの『遠い世界』ではなく、
SNSなどの『近い世界(幻想)』である様に感じるというのは、
そのコミュニティに容易にコミュニケート出来る機会
(ツイッターなど)が出てきたからだろう。

これまでは、流行や初の体験は『遠くの世界』の出来事であり、
そこに関与は出来ない。芸能人に触れる事は出来ない。
政治家に発言する事は出来ないと考えられてきた訳である。
しかし、そうではなくなった。見えない壁が取り払われた気になっている。

その見えない壁を畏怖していた人々は、
昨今の『無様な失敗』から、見えない壁を『見る必要の無い壁』
と考える様になり、『見るべく』は身近に関与出来る問題であり、
『アクション』であると考えだしたのではないでしょうか。

で、話は少し戻り、評価経済社会の勝ち方は勝間さんではないですが、
なんとしても『有名になること』ですね。
その有名になるなり方というのが、これからの問題になると思うのですが、
今の所、社会的認知度というのが評価経済社会を生き抜く上では
最も強い武器になる訳です。

と、ただの一般人がいったところで何の説得力も無いですが、
ビジネスモデルぐらいは考えられる。
この日本ではやっぱり『有名』であることというのは
『大きな価値』だと思います。見知らぬ誰かよりも、
知っている人、知っている人よりも、憧れの人、それは芸能人ですか?

芸能人かどうかは別にして、人に知られていることというのが
『価値』になるというのは皆様ご承知のことと思います。
売れる売れないは別にして、10人にアピールするのと
1000人にアピール出来るのは、土俵が違う訳ですね。

だから、『有名人』は価値になった訳です。
そして、その価値の『クオリティ』が求められる時代になった訳ですね。
だから芸能人も『うかつなこと』はしてられない。
でも、そんなに瞬時に変わる事ではないから大丈夫。
変わるまでに、自分の価値を『売れる人』はどんどん売っちゃいましょう。

というわけで、昨今では、自費であっても出版をし、
啓蒙書やビジネス書を出す人が後を絶たない訳ですが、
出す人と同時に、クオリティの高い人を『強く求める』
傾向というのが強くなっている様に思います。
ジョブズの話を聞きたいとか、柳井さんと話したいとかね。

ま、実際に話したいというところまで度胸のある人
というのはあまりいないと思いますが、
セミナーとかあれば行きたいという人は多いでしょうね。
クオリティの高い有名人は『話す事』や『会う事』も金に出来る訳です。
なんてのは皆さん承知ですね。

と、偉そうに前書きを書いていると知らず知らずに
ハードルが上がってきたので、今更思いつきの
ビジネスモデルを言うのに躊躇も覚えますが、
タクシー会社向けもしくは個人プロダクション向けのお話です。
要するにタクシーの運転手やっちゃいなよ。ということです。

勿論、ジョブズや柳井さんなど現役でバリバリの人にとっては論外ですが、
一発屋芸人とかにはもってこいだと思います。
顔だけでも知られている人というのに会いたい。
話してみたいという人はいる訳です。同時に話を聞いてみたいとかね。

作家さんとかでもいいんじゃないでしょうか。
その著書の話を聞きたい人というのは、
雑誌に載せるほどの反響はなくても、
ファンレターを送ってくれる様な人を多少は持っているものです。

ファンに直接売るなんて。。。という考えもあるかと思いますが、
それであればご自由に。『話』や『会う事』が金になる時間というのは
基本的には短いものだと思うのです。使えるものは最大の効果でつかいましょう。

その延長戦として『キャバタク』ですね。
実務的な問題は多々あると思いますが、
車という空間に萌える人たちは多い訳ですし、
キャストの子も『時間』を売れる。
たぶんこれまでも考えられた事はあるのだと思いますが、
現代にはマッチしている様に思います。すでにある?

2人だけの空間で、或は何名かだけの空間で、
『その人を独占できる』通常は会場や設備など開催費用だけでも大変な事になり、
『話したい』とか『聞きたい』とかいう思いが
無にされる機会というのは多々あります。やれることをやりましょ。

だから、一発屋芸人はとりあえずホームページと、
ドアに張るステッカーを用意して、すぐさま運転しましょう。
そして、ツイッターで現在地をなう。しましょう。
どうせ暇になったんだったら、そんなことも試してみてはいかがでしょう?
意外にあなたを独占したい人は多いかもしれません。

という訳で、評価経済社会でのビジネスモデル
『私の時間を売ります。byタクシーで』ってのは、
意外にいけるんじゃないでしょうか?
また、タクシーの運転手さんもそういう『芸』があるとお客さんも付く訳ですが、
一般人にはやっぱり難しいですよね。
いっそのこと24時間UST中継とかしてみたら?

というその場の思いつきでした。
桐島、課長やめるってよ
タイトルで覗いて頂いた方ごめんなさい。

 日本の特徴は管理費が異常に高い事だと思う。
勿論、人件費を設定する基準が高いから
仕方がない事かも知れないが、細かく管理出来ると言うのが、
良い所でもあり、コスト高の要因なんですかね。
この管理費を金以外の対価で補えれば、何かとうまくいく気もする。

管理なんてものは理屈でいえば皆がルールを守りさえすれば、
いわゆる管理職なんて訳のわからない業務に
高額な賃金を支払う必要がない訳だが、
実際は管理能力なんてものの基準はとても疑わしい。
役目へのコミットメントを明確にすれば良いのだが、
色々な言い訳でそれは難しいのが現実なんですね。

きっと少し前は今よりももっとコミットメントする教養が
日本人にあったのだと思う。だから優秀なものづくりが出来た。
それはビジョンが明確だったからだろう。
こうやって、こうやって金を稼ぐとかね。
今は、業務を担当すれば金が湧いてくると考える風潮がある。
だから、歯車なんて必要ないと考える。

デジタルとアナログの違いは歯車が容易に見えるかどうかである。
容易に見えれば、やっている事の意味がわかるが、
デジタルの様に目に見えにくくなると、
多少の怠けは影響がでない様な錯覚に陥る。

そして、管理側もそれが見えないから、
具体的に数値がおかしな動きをするまでは気づかなくなってしまった。
そして、気づいた時には問題が大きくなりすぎて いて、手のうちようがない。
お金の稼ぎ方と言うのも、そんな感じになってしまった。
何を売ってお金を得ているのかわからなくなった。

日本はこれまで目に見える不具合には、
潔癖な国民性を持って対処することが出来た。
しかし、目に見えにくいコードというものは、
数字というキチンとした形を持っているため、
その知識への怠りが現在の状況を呼んでいる。

きっと日本人は目がとても良い。
だから欠損には誰よりも早く気づくことが出来た。
しかしながら、出来上がった構成は、
表面が取り繕われている為、中まで覗けない。
日本人はレコードまではギリギリ作ることが出来るが、
CDを作ることは出来ない。
でも世界一のレコードを作ることは出来る。

アナログに帰れ日本人。それが、日本の出来ることであり、
成熟していく時代の生き方である。

※嫉妬や出来ないことに憧れるよりも、
やれることをやろうよ!と言うことですので誤解のなきよう。
デジタルでも素晴らしいのを作っている方々はたくさんおられますので。

映画『桐島、部活やめるってよ。』
http://kirishima-movie.com/index.html
の様に、私たちは何を追っているのか、
そんなことをちゃんと考えなければ成らない様な気がする。
個人的にはジャストフィットはしませんでしたが、
もう一度見たいと思う映画でした。


ベーシックインカムのデザイン
 農家のあり方について素人なりに思う所を綴ってみる。
収穫された農作物が破棄されているというのは本当だろうか?
まあ、本当だろうけど、それをベーシックインカムとして
利用する事は出来ないのだろうか?なんてことは、
きっと考えられていることだと思う。

例えば農家にも小規模、大規模様々あるだろうが、
一人の人間が一ヶ月に必要な農作物を手に入れるのには
何平方メートルの農地が必要なのだろうか?
勿論、収穫時期や気候状況を別にして。

仮に一農家の畑or田んぼが100平方メートルだと設定して、
1人の人間の月に必要な量が8、3平方メートル分だとする。
そうすると、その農地へはいくら払えば、
1ヶ月使用する事が可能なのだろうか。

仮の設定で考えると100平方メートルの農地があれば、
1人の人間が1年間食べられる農作物が1つの農家でまかなえる。
勿論、収穫物の量と農地の量が比例しているかは置いておいて。

農家さんが農業を生業として生活を行う為には、
最低限いくら必要なのだろうか。
勿論、土地によりけり、人によりけりだとは思うが。
仮に300万円を設定するとすると、1平方メートル辺り、
3万円の売買が必要になる。では、
1平方メートル辺りの収穫量はどれぐらいなのだろうか。

勿論、運搬費や種、肥料、管理費などの費用が必要ではあるが、
正確な数字はいかほどなのだろうか?

正確な金額はひとまず置いておいて、
昨今では、企業や飲食店が農地を買う事が多い。
実質的にはレンタルのようなものかな。
企業や飲食店は農作物を買い取りそれに利潤をのせて売る訳だが、
実際の農作物の金額はいくらなのだろうか。
なんとなくこの金額設定がタブーな気がする。

企業や飲食店が直接取引を行うのは、
当然ながら自社の利潤を上げる為である。
企業や飲食店以外で農家と契約する事は出来ないのだろうか。
当然出来る。

具体的な農家さんとの契約はいかほどなのだろうか。
それを10人、20人のコミュニティで契約し、
生活に支障のない範囲で、食料購入する事は出来ないのだろうか。
1人、2人であれば、金額設定にもなかなかこぎつけないが、
最低保証はいかほどなのだろうか。

勿論、すべての人が農作物のみで暮らす昨今ではない訳だから、
食費が直接取引のみで浮く訳ではない。
ただ、八百屋さんやスーパーで売られている金額には疑問が起こる。

ただ、実際の所、落下リンゴの話に限らず、
風評被害の農家さんはいかほどで買い叩かれているのだろうか。
売っても売っても実入りにはならない。
それであれば、代理店を通さず個人取引は出来ないのだろうか。
当然、やっているところもある。ただ、公にはなりにくい。

だからスーパーや八百屋ではなく、
直接取引を請け負う代理店がweb上に様々ある訳だが、
結局そこにもマージンは発生する。
そして、仕事としても成立している。
それを破壊したいと言っているのではない。
でも、わかっちゃうと破壊されちゃうんだろうな。

残念ながら、目に見えない一括管理の代理店には、
農作物だけでなく、電気でもブランド品でも信用がなくなってしまった。
だから正直な話疑ってしまう。妥当な料金開示があり、
その上での流通コストや管理費が明示されないと、違和感が残る。
ある意味で残念な事ではある。

しかしながら、買い叩かれている農家さんもいるという
大義名分を掲げるというのは卑怯な話だが、
いわゆる『納得の価格』というのが疑わしい。
でも、同時にそこに様々なマージンをのせる事で
市場は成り立ち規模が拡大したのだろう。

単純に提案なのですが、風評被害で買い叩かれている農家さんと
3、40名程度のコミュニティでの直接取引を行う場合に、
農家さんも生業となって、3、40名も最低限飢餓に
陥らないやりとりを行うには、どれぐらいの農地規模と、ど
れぐらいのコストがかかるのでしょうか?

それがお互いに妥協点を打てる設定とはどれぐらいなのでしょうか?
色々と煩雑な事情もあると思いますが、
お互いが『生きる』ことが絶対事項だと考えれば、
団体での農地契約、マージンを取らないで行える仕組みというのは
意外と簡単に出来そうな気がするのですが出来ないものなのでしょうか。

勿論、農業は自然との戦いでもある訳ですから、
決められた量が絶対的に出来る保証というのも難しいとは思うのですが、
ファンドの様な形を借りて行う事は出来ないのでしょうか?
少ないときもあれば多いときもある。同時にいらないときもあれば、
困っているときもある。

基本的にどんなものでも、我々はストックや欠損の可能性を考え、
コンプライアンス問題の様に、何かにつけ
『できなかったらどうしよう』を言い訳に、
無駄なものを大量に作ってきた様に思います。
しかしながら、目に見えるコミュニティで会話する事はやっぱりできないのでしょうか。

坂口恭平さんの『独立国家の作り方』中にもありましたが、
仮に誰も所有していない土地に、たくさんの食べ物がなっていたとしたら、
それを譲り合い、共生することは出来ないのでしょうか?
10人いたとして5つしか食べ物がないなら、
半分こにすればいいし、それが駄目なら後にすれば良い

でも、今の社会は10人いたら、とりあえず50個或は
100個用意しとけばなくなることはないだろうと考える。
で、余ったものは『ゴミ』にする。農作物は絶対に腐る。
そんなこと考えちゃいけないみたい。

別に正規で流通している農作物を安く売れ!
と言っている訳ではない。なんで余らすの?
なんで捨てるの?といっているだけである。
『もったいないおばけ』に食べられちゃうよ。と思う。

だから、余ったもの、捨てるものぐらいは捨てる前に、
動物達の保健所みたいな場所を作ってもいいじゃないか。
それで、農作物の値段が下がるとしたら、TPPでなんて勝ち残れない。
てか、それぐらい寛容になろうよと思う。

でも、きっとそれじゃ正規で買うのがばからしいとか、
違法な取引が横行するってなるんだろうけど、
じゃあ、君たちの生活水準を確保する為に弱者は。。。
という話なのか。って話にすると良くないね。

問題を探そうと思えば、問題なんていくらだって作れる。
要するに何が大事かって話だ。自分の生活水準の確保か、
他人の生かである。きっと社会は数年で混乱していくのだろう。
だから、その前にせめて『譲り合う気持ち』ってやつの
リハビリを行う必要がある様に思う。

みんな自分が弱者になったら、そんなことを言い出す。
偽善だろうがなんだろうが、人として何が大事か、
残念ながら経済競争に敗れた私たちが生きる『幸福な生活』というのは、
身近な所にあるが、それももうじきつぶれそうな気もする。

利他性の成熟度が問われている。なにが大事なのか、
何を大事にしたいのかが今後のあり方だろう。

生きる為には衣食住が必要である。
裏を返せば衣食住があればまかなえる。
衣食住を私たちは色んな形で装飾しすぎた。
デザインが見た目だけに走る様に、見た目だけにお金を払う様になった。
デザインとは装飾なのか?そうだとしたら、
『必要』とした『理由』は何だったのだろうか?

パーティーに参加する為には、宝飾品が必要かもしれない。そ
の宝飾品には華やかなデザインが必要なのかもしれない。
しかしながら、パーティーに参加しない人に宝飾品は必要なのだろうか。
畑仕事にネックレスは必要ですか。
でも、たまには『誰かに見せたい』。

そして、パーティーには参加しないけどパーティーに参加出来る
『資格』の様な『気分』が欲しい。
かつて『茶の道』は華やかさを極め、それを利休が戒めた。
その『わびさび』に日本人は共鳴した。
きっとそこには、『私』という自立した存在があったのだと思う。

残念ながら、利休は『美術館』に展示される様になった。
恐らく西洋でのデザインは鑑賞するものであり、
貴族達の為にあったものだと思う。
しかしながら、日本では、民衆の機能として磨き上げたものであったと思う。
私たちは民衆である。貴族ではない。

民衆は民衆の生活を『幸せに』送ろうじゃないか。
だから、『もったいないおばけ』が表れる前に、
とりあえず、余ったものや捨てるものは、
捨てる必要がないかもしれないから、
『ゴミ箱』じゃなく『ざる』にでも置いておこうよ。

そのざるに置かれた『食べ物』で救われる命があるかもしれないし。
それを涙して喜ぶ人がいるかもしれない。
ま、個人的には偽善的行為だとは思いますが、
どんなことでも偽善的行為である。

ベーシックインカムのデザインは、
装飾ではないことを祈る。

まったく関係ありませんが、
映画『桐島、部活やめるってよ。』
そこそこ面白かったですよ。