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芸術の見方をラファエロ展に行って考えて、ハックルさんのツイートを見てクリエイターについて考える
 ラファエロ展に行ってまいりました。
これまでいわゆる超メジャー美術展は基本的に行くようにしておりましたが、
10年近くかかって。。。ようやく、私なりの芸術の見方というのが見つけられたような気がしました。そのように芸術の見方が見つかった。と言う点で、
今回のラファエロ展は開場
30分前から並び、入場後、前の人たちを抜き差しトップで、作品独り占め感覚を味わったという感想は置いておいて、滞在時間45分(ラファエロ展20分、常設展25分)と、これまでの私の芸術鑑賞の中では展示点数から考えても、結構長めの滞在時間となった展覧会でした。かなり短いですけどね。。。

単純にラファエロ展の感想は、ラファエロって、“手フェチ”じゃね?
っていうのが、率直な感想です。ラファエロ自身の作品は恐らく20点前後で時系列に展示されているのですが、年を重ねるにつれて、重ねられる筆の量=漆を重ねるがごとく描かれる作品のクオリティはさることながら、手の美しさに関しては、初期作品の頃から印象が強く残る魅力を持っていたように思います。

そこで、ようやく気づきました。あっ、芸術の見方ってこうじゃね?
と。
ラファエロにしても、ダヴィンチにしても、ピカソにしても巨匠に限らず、いわゆる芸術家の作品てどうしても、一般人には高尚で、すごいものであり、それを作ったのはすごい人だ。世に発表されるもの=高尚だ。

なんて、錯覚に陥りがちなように思います。でも、よくよく考えてみるまでもなく、彼らも人間であり、時には高尚な人でもあったのかもしれませんが、中には精神疾患の方や、生涯貧乏人、
100年後に認められた人なんて様に、色んな人が当たり前に、現代と同様いたわけですね。

でも、過去の時間を数百年もさかのぼり生き延びたのはやっぱり素晴らしいと認められたから、だからその価値はきっと素晴らしいものなのだと思います。でも、その作品だけでなく、作者や背景などのプラスα(解説など)を高尚に崇め奉るというのは如何なもんでしょう?とも思っていたわけです。

だって、所詮は人だよ。村上隆さんが仰られるように芸術家は賤民だと、そこまで卑下する必要はないとは思いますが、あくまで人です。空が飛べるわけでも、時空を乗り越える事ができるわけでもありません。所詮、人なんです。

と、長々くどくどと綴りましたが、そう思うと、ラファエロって“手フェチ”じゃね?って、自分の身近な存在にまで、落とし込めるわけです。そして、そこまで落とし込むと、ようやく盲目的な恋から覚め、その作品そのものを見られるようになる気がします。そして、手フェチラファエロの描く手を見て、その弟子や、コピーなどと見比べると、やっぱり違う。てか、全然違う。

油絵を描いたことがある方ならわかるかもしれませんが、油絵で絵を描くのってすごく大変です。繊細なものを描くには、絵の具自体の強度が強く、彫刻の様に一本の理想のラインを作るのに、結構手間がかかります。(私が素人というのもおおいにあります。)

だから、よく『モナリザ』を取り上げて言われるのは、ダヴィンチの執拗な愛。死に際まで、筆を重ね続けた執着が取り上げられるわけです。丹念に丹念に何度も何度も重ねられた絵画とは、デコボコの岩石を水晶のように滑らかなものへと磨き上げる作業と一緒で多くの意味が詰まっているわけです。

単純に見比べてわかる違いは、“本物感”。ラファエロの描く手は、鑑賞距離1mでは当然本物の様ですが、30cm、10cmと近寄ってみても本物の様に見える。むしろ動き出しそうなきまでする。他の作者の作品は1mでは本物っぽいですが、30cm、10cmと近寄るにつれ、絵であることが如実にわかる。

それは筆の跡とか、ありえない影の形とか、単純に重ねた量が少ないから、劣化して落ちている。自分の手の甲をみればわかるように、パッと見は、目立つ血管とかに目が行きますが、じっくり見れば見る程、皺や産毛、さらには毛穴や微細な色の違いに気づくようになる。

そんな歴然とした差が、ラファエロの絵にあることには気づくわけです。そんな違いに気づくと、じゃあ手以外のところはどうだ?顔の大きさは?目の色は、肌の質感は?と、色んなところが気になり始める。

勿論、写実主義の作品に関しての見方になってはしまうのでしょうけれど、
“本物感”をキーワードにして、作品を眺めると作者が込めた気持ちがわかる。『絶対このモデルに惚れてる!』って感じる絵の顔は、徹底的に書き込まれているのはもちろん、目の輝きが違ったり、顔の大きさのバランスが違ったり、なんらかのこだわりを感じたりするんですよね。
なんて、私の個人的な方便はこれぐらいにして、要するに見方は5つ。


■芸術を楽しむ方法

〆邁箸梁減澆鯔困譴襪海

作家の知名度だけでなく、有名な作品であれば、やっぱりそのものの価値というよりも、別の雑念にどうしてもとらわれてしまうことがあります。かつては、ただの朝鮮茶碗が、利休という存在によって日本では数億の価値へと昇華しながらも国外では、見向きもされない存在であったりと、芸術の価値とは、そのものよりも時の経過や、伝説などの付加価値に惑わされてしまうことがあるものです。あとは島的な文化とかね。

※おすすめの方法は、事前情報をいれない。一切解説文を読まない。


∈酩覆虜遒衒を知る

私の見方というのが100%正しいわけでは決してありませんが、芸術だけでなく物の価値というのは、自分が体験してみて初めてわかるということが多くあります。染物を見て現代であれば、プリンターで簡単にプリントできるような気がしてしまいますが、木に掘られた型紙を見た後では、染物だけでなく型紙を作る途方もない作業に驚嘆してしまいます。

※学芸員さんに聞いてみよう。『良さがわからないんですが、なにがいいんですか?』とかね。


ほかの作品と具体的に比べる

例えばラファエロ展であれば、私の場合、最も気になった手のリアリティ(描き方や重ねられた色の量など)をほかの作家と比べてみたり、過去の作品と比べてみたり、或いは自分が書いた時に出来たものと比べてみたり。やっぱり偉大な作品(私のレベルではギリギリ写実主義まで)は明らかに違いがあります。

※これはもう足で稼ぐ。ラファエロ展で言えば私は、最終コーナーと“大公の聖母”を4往復しました。


せ蟠甬離でみる

状況にもよりますが、『神は細部に宿る』という言葉もあるように、個人的にやっぱりモノの一番の魅力はディティールです。もちろんトータルとしての外観一発でわかる魅力もありますが、外観一発でわかるものは総じて、すべてのディティールが美しいと言えます。だから、自分は見る目がある。なんて錯覚に襲われる前に、一歩前に出てその作品を見ましょう(ガラスに顔がついちゃうぐらい)。そして、そうすれば筆の跡が見えたり、毛穴まで描かれている事実に驚嘆したりと、パッと見ただけではわからない感動が、そこにはあったりするものです。

※ほかの人を押しのけるのはやっぱり引け目を感じます。朝一番先頭に並ぶ心意気で。先頭グループであれば、逆走とかね。


イ匹Δいιに作ったかを想像する

そして、その作品を作っている瞬間を想像しましょう。この筆跡はどれぐらいのスピードで書けば残るのか、はたまた筆跡が残らないようにするにはどれだけの手間がかかるのか。そんなところもじっくり見てると、あれ?ここに比べてここってちょっと、手を抜いてない?なんて感じる一瞬があったりするものです。そして、こだわりの一瞬を見つけた瞬間、“ラファエロって手フェチじゃね?”とか、っていう様に作家を初めて一人のただの人として認識できるように思います。そうすると、不思議と権威ある作品も、妙におかしなものに思えたり、圧倒的な時間をかけた想いに感動を覚えたりするんですよね。そして、作品自体の素晴らしさに気付く。
※この方法はあなた次第ですね。


なんて、偉そうにつらつら綴ってみましたが、現代美術の見方はおろか、ピカソに代表されるキュビズムなど、写実主義以降の作品の良さは、はっきり申し上げてまだまだわかりません。が、こだわりを見つける=コンセプトを理解するというのが、きっと見方なんだろうなと、自分なりに現時点での芸術との付き合い方がわかったような気がしました。

私のブログを読んで下さるような方々からしたら、『え。。。何を今さら。。。』ということかもしれませんが、きっと、美術館に足を運んでいる人の7割近くは、私ぐらいの認識だと思っています。

だから、偉そうに、上から目線で、芸術の見方(キリッ)って感じで綴らせて頂きました。もし、こんな見方でも参考になるようであれば、お試しください。


偉大な芸術家って言ったところで、色情魔であったり、酒乱であったり、精神疾患であったりと、誰もが人間として(社会的常識があるかないか)?崇め奉るほどの存在ではなかったりするわけです。もっと芸術を身近にみよう。どの作品もショーケースで一部の貴族たちだけが眺めるように作られているわけではないわけですから。と、ここ最近のハックルさんと秋元康さん発言に対する、自分なりの解釈もおぼろげに込めて、半年ぶりぐらいにブログ記事として書いてみました。


ブログっていうのは作品製作ってい感じ。ツイッターは、即興演技=パフォーマンスって感じですね。でも、そう考えると性格的には職人気質らしい私が、ダンサーや俳優などのパフォーマーに憧れてるから、ツイッターを好むのだろうか?なんて、考えにたどり着いてみた。


鞄文化
 「鞄には何も入れる必要なんてない。」
TUCCHINOという世界でも珍しい総手縫い仕上げの鞄職人、
生見さんとお話をしていると、職人さんて素敵。
なんて、やっぱり思ってしまいます。

モノを運ぶのであれば、風呂敷より優れたものはない。
運ぶものによって変化する布は、最適の形を作ります。
しかしながら、日本文化と同様、風呂敷文化も廃れました。

キムタクがポーターを広め。ってのはまったくもってないわけですが、
誰もが鞄を持っているようになりました。
内部は様々に分かれ、素材は軽量化を追及し、
出かけるファッションは、とりあえず行くファッションに変わりました。

鞄には銀行バッグやドクターバッグ、弁護士バッグなんて、
異名がつくほど、様々な種類があります。
巷に広がっているのがブリーフケースってやつがほとんどですね。

かつて鞄には役割がありました。
たくさんの書類、たくさんの医薬品、一本のワインなどなど。
それら必要最小限のものを、運ぶ手段であり、
かつ、それを楽しむファッションであった鞄は、
いつの間にか、入れることが目的であり、
持ち運ぶことが当然であり、
携帯電話、パソコン、タブレットなど、
かつて必要としなかったものを次から次へと収納する物置へと変化しました。

ドラえもんを作り出した日本人ですから、
それもそうね。なんて思っちゃいますが、
世界に認められる鞄を作りたいと仰る生見さんは、
鞄というものとの付き合い方こそ、鞄文化であり、
模倣文化のわが国日本人がつかみ損ねた文化を
掴み取ってくれる人だと思っております。
諦めるという意味
JUGEMテーマ:日本の文化
 「諦める」の諦という漢字の意味をご存知ですか?
この漢字の意味は帝(王様)が言う(発する)という意味だそうです。
王様がいうのだからそれは絶対だと言うことです。
裏を返せば、王様が言わない限りは、
諦める必要がないということだと思います。

近頃は脱力感を露にし、
世間的にも自殺者が増え続けておりますが、
「諦める。」ことは許されないことです。

封建社会でもない現代において、
諦めると言うことはありえません。
今一度、人のせいにすることなく自分の意思で、
考えてみてください。

諦めざる終えなかった人々に対して、
自らの意思として「諦める」と語るのは放棄でしかないと思います。

なんて、固い話でしたが、
漢字と言うのはとても深いものですね。
と、改めて思い知りました。