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日本のあるべき姿
 World will be happy when I'm happy.

西洋的な思想と東洋的な思想が違うというのは、
比較的有名な話ではありますが、
現実世界、とかくグローバル社会ってやつの外にいると、
すっかり忘れてしまうものの様に感じます。

5名が写っている写真があります。
その真ん中の人は笑顔です。
その真ん中の人は幸せでしょうか?

という問いに対し、
西洋人と東洋人では大きく反応が違うと言われます。
西洋人はその人物を見て『Yes』と言い、
東洋人は周りの人物を見て『mmm...』と感じるそうです。

昨今では、『天才』ジョブスが騒がれ、
次世代のジョブスになるべく、
躍起になるべき風潮が漂っている様に思います。

いつの時代も、人は『ヒーロー』に憧れ、
そして『挫折』を知ります。

しかしながら、ふと思う訳です。
私たち日本人とはどういう特質があったのかと。
残念ながら過去形ですが、
私たち日本人は『残念』ながら、
いつの時代も『町人』でした。

己が『ヒーロー』ではないことを理解し『町人』でありました。
それは、なんとなく『みすぼらしい』様に捉えられがちですが、
はたしてどうなのでしょうか?

日本人の特質は『臆病』であったことだと思います。
『ヒーロー』ではないことを理解しているからこそ、
田を耕し、商いに努めました。
そして、『特別』ではないことを知っているからこそ、
『模倣』し、改良しました。

私たちはいつの間に『ヒーロー』を目指す様になったのでしょうか?
あなたが『ヒーロー』になったとき、
世界は幸せを感じるのでしょうか?

なんとなく、私たちの出来る事を知り、
また同時に『希望』の様な、『役割』を感じる次第であります。
私たち日本人は『ヒーロー』にはなれない。
ただ、だからこそ『幸せ』にはなれる。
と、そんな気がしました。

やっぱガラパゴスでしょ。
『黄金の国ジパング』は、かつては『未知の国』だった訳です。

ちょっと違うけど、こういうことだと思います。

良くも悪くも高尚な日本人
 今日はかなり長めです。
また、『なぜ暴動が起こらない?』の序章のつもりです。

 おそらく日本社会だけでなく人としての知識や教養、
技術や精度というものは尊いもので、
人として生活する中で蓄積され成熟したという結果を踏まえ、
年齢や経験を重ねた年長者やプロフェッショナルに
対する評価と言うものは、良きものとされるのだと思います。

個人的な考え方ですが、“神”がいたとすれば
それは一切の矛盾のない“完全な存在”だと思います。
が、そんなものは私の想像力内ではありえないと思います。
が、矛盾がないと言うのは置いておいて、
ある基準の上で“完全”に近い存在と言うのだとありえると思います。

と、ややこしそうな話なので簡単にしますが、
最近実績が上がらないそうですが、
想像上、10割打つイチローと言うのはありえると思います。
仮に10割打てたとしたらあまりにも“おもしろくない”ので、
嫌われると思いますが、現実は3割5分でもスーパーヒーローです。

と、話がずれてきたのでその話はまた別の機会にと思いますが、
3割5分どうこうは別にして、“ストイック”に突き詰めてきた
イチローに対し多くの人が賞賛の声をあげるわけですね。

イチローの場合は野球選手として、スポーツ選手として、
凝縮した錬度が異例の速さで実績を作り、
結果を残せるのだと思います。

ところが日本の市場はいかがでしょう?

良いか悪いかは別にして、若きリーダーというのはとても少なく、
もしかすると見えないだけかもしれませんが。
いわゆる成功者、権威者、発言者というのは、
多くの経験を積んだ“熟練者”であるように思います。

熟練者というものは、それぞれの道のエキスパートであり、
それぞれの道を極め知り尽くしているゆえ、
その下のものからすると“尊い存在”であるわけです。

そして、その“尊い存在”というのは、
下のものからすると『高尚』な存在のように思え、
また、『高尚』ゆえに尊い存在のように錯誤してしまうように思います。

『高尚』という言葉を調べると
【知性や品格が高く上品なこと】のように説明されます。

仕事だけに限らず、いわゆる趣味や特技、
或いは人生というものにおいても、
それらの経験の“高さ”というのは、
その存在の存在感に付随しているように思います。

だから、人生と言う経験を積んだ年長者は落ち着き払い、
ビジネスという経験を積んだ権威者は冷静に、
技術という経験を積んだ職人は寡黙であるように思われがちであり、
また、下のものからその様な“イメージ”で拘束されるように思います。

“成功者”である“熟練者”は事実かどうかは別にして、
世間的に上に上げたような“高尚”なイメージをつけられるように思います。

その結果、“成功者”には“成功”が求められ、
時に反発を招くわけですが、それも別の話。

と、結果、
日本の成功者=高尚な人間となり、
高尚な人間=憧れの存在となり、
仮に成功は修められなかったとしても、
その憧れの“高尚”な人間になることが“良きこと”である。
ように考えられているように思います。

その結果が、教養の育成であり、
礼儀作法や気遣い、無私の心を養おうという
『精神鍛錬』こそ最上のものだと考えられるようになったように思います。

と、これまでのブログパターンからすると、
『が、しかし。。。』
と思われた方もおられるかもしれませんが、
そんな『精神鍛錬』は個人的に大好物です。
で、また、そんな文化が養われたということは誇りに思います。


が、しかし!
というと『精神鍛錬』を惰った人々への文句か。。。
と思われた方。そうではありませんよ。
そんなこと青二才の私にはまだまだ言えません。

ただ、“高尚”であるという幻想が、
もうじき5ヶ月にもなる現状を生んだような気がしてなりません。

精神鍛錬を積んだ結果多くの人が『耐えること』を学んだのだと思います。
災害に耐え、風評?に耐え、生活に耐え、
そして、人災に巻き込まれた現実に耐え。

それには、多くの『美徳』があるように思われます。
というより、思いたいと思います。
災害をうらみ、風評を罵倒し、生活から逃げ、
そして、人災に巻き込まれた現実よりも
『私なんか。。。』という忍耐は、
それこそ“高尚”であるかのように思われます。

しかし、本当にそれは良いことなのでしょうか?

現実を生きる上できれいごとだけでは済まされない
『現実』は誰にでもあると思います。
出来るだけ『傷』を負いたくないと自己は防衛され、
時に無視し、忘れ、或いは、
『私にはどうしようもできないのだと』
諦めの言葉で締め括ります。

それは致し方のないことなのかもしれません。
基本的に私も何度も申すように発狂してしまいたい気持ちです。
しかしながら、諦めた人は置いておいて、
この現実に対し、“高尚”であるということは、
なんだか違うんじゃないの?
って思ってしまいます。

【知性や品格が高く上品なこと
というのは、黙して語らぬことではなく、
『利他』の精神で戦うことであるように思います。

精神的鍛錬は己を強く守り“無私(耐える)”の精神を
高めたのかもしれませんが、そこには己しかいず、
10割打つイチローの様に嫌われたのかもしれません。

そんな“完全な人間”よりも、個人的には、
プライベートでは馬鹿なことをいって、
時には“醜態”という姿をさらしてしまうイチローの方が好ましく思い、
“完全”でないことを自覚しているからこそ、
ストイックに回りに何を言われようと『立ち向かう』
イチローの方が好きですね。

というと、『それって無私じゃね?』って思われるかもしれませんが、
エンターテイメントと言う世界で実績を作っていると言うことは、
十分に『利他』の精神だと思います。

たしか『プロフェッショナル』という番組でもいっていたと思います。

と言うわけで、本当に『鬱屈』しそうな毎日ですが、
いつかの『利他』の精神に届くように、
排他的な現実にまみれ、『無私』の精神で、
ブログに愚痴ります。

要は、『ぶってんじゃないわよ!』ってことですね。
たまにはというか、こんな機会に抗わないでどうすんの?
って思います。

でも、どうしたらいいかわからない。
というのもあるように思いますので、次回はそんな話をおば。。。


日本人の忘れ物 性善説
 ここ最近は海外ってどんなんかなぁ。
なんてよく考えます。
あまりにも多様な激動の情勢が、
テレビの中では、口蹄疫問題のように一極集中。
まぁ、それはわかるんですが。。。

と、思考を現実から逃避させると、
色々なことが見えてくる気がします。
果てしない絶望と、抗いきれない運命と、
逃避だから得られるほんの少しの“夢”と。

なんて、時折発狂してしまいたくなる現実ですが、
『逃げちゃだめだ。』と、
今を生きる責任を考えてみる次第であります。

で、日本と海外の違いというものをなんとなく考えると、
大きな違いは“文化!”
ではなく、宗教と信仰かなぁ。なんて感じます。

凡そ、宗教というものは“生”或いは
生き方についての道しるべ(ルール)であるように思います。

ルールのない世界の中では、正義も悪も存在しません。
仮に性別がルールだとしたら女性に生まれれば正義、
男性に生まれれば悪。となっちゃうわけです。
ルールのなかった世界から数万年間、
己が生存する為のルールとして皆が考え、
それぞれの生存の為に善処したのが宗教だと思います。

と、そんな宗教ですが、
個人的にはある種のルールでしかないわけですから、
こんな世の中?特に日本では必要とされないように思います。
だって、『世の中、銭でしょ。』ってなるわけですから。

と、そんなことを言ってしまうと、
『日本て腐ってる。。。』って感じですが、
単純に宗教への信仰が必要なかったというのは
良くも悪くもというより、3月11日までは
とても良いことだったように思っております。
(無知を是としてですけどね。)

国家レベルでの信仰は決裂も生みますが、
それだけの集中も生み、また“神”という
『諦め』と『希望』を“神”が与えてくれる訳です。

逆に信仰がない。或いはバラバラということは、
集中は生まれませんが、“意思”或いは
各々のルールが生まれるわけですね。

日本がこれまで無宗教、無信仰、
融通信仰(時と場合ってやつですね。)でやってこれたというのは、
多くの国民が共有しなければいけない“ルール”が、
ルールなんていう堅苦しい言い方ではなく、
性善説の様に、『こいつは悪いやつではない。』
という“感覚”が、島国、単一民族、
中流社会という特殊な環境の中で保たれていた?
からの様に感じます。

それは、本当にすごいことだと思いますし、
だから日本人すき。なんて思っちゃいますが、
そんな性善説も年々崩壊していたのでしょう。

これまで異常とされていた事件も事故も逆の
『性悪説』から考えると納得がいってしまう。

しかしながら、
昔も昔で酷い事件が起こっていたなんて話を聞くと、
単純に臭いものにふたをし続け、
そのふたの中が見えないものだという
性善説と言うルールが、弱ってきたのかもしれませんね。

『こいつは悪いやつではない。』という希望が、
いつのまにか
『私に危害を加えないやつは悪いやつではない。』
という強制と監視と恐怖心へ移り変わったのかもしれない。

それはとても怖いことですが、
例え偽りであったとしても、
これまで『性善説』が保たれていたと言うのを誇りに思おう。
また、これからこそ『性善説』を信仰しよう。

ルールのない中での『性悪説』というのは、
悪夢でしかないから。。。

というわけで、やっぱりテレビは捨て去ろう。
そして、政治は無視しよう。
今行われている醜態は精神を破壊する。

そんなものよりも、近くにいる人を大切にし、
そして、その近くにいる人の近くにいる人も大切にする。
そんな様に、少しづつ少しづつ増やし分け与える。

きっと、今こそ宗教が必要である。
というと、誤解を与えてしまいそうですが、
そうではなくて、『古き良き日本人』みたいなものが、
必要です。ということですよ。

でも、その為にはやっぱりこの醜態から逃げないで、
その上で“夢”を見つけないと何にもならない気もするんですよね。

あぁ、ほんとなんか良いことおこんないかなぁ。
なんて、現実逃避してみます。。。


日本はアーティストの宝庫
アーティストってなんでしょう?

デザイナーは『他』であり、
アーティストは『我』とそんな気がします。
他の欲を作るデザイナーと、
我の欲を作るアーティスト。

個人的にはアーティストが好きです。
そこには圧倒的な力があるように感じるからです。

かつて、多くのアーティストは、
寝食を捨て、常識を捨て、自らを捨て、
といっても各々に自覚はないと思いますが、
具現化できないことにもがき苦しみ、
敵わない事に挑み続けていたと思います。

それが良いことか悪いことなのかはわかりません。
しかしながら、彼らは『抗いきれない』不条理さに
挑戦し続けたのだと思います。

でも、思い返して見ると日本人で偉大なアーティストって、
誰もが思い浮かべられる人って岡本太郎ぐらいでしょうか。
そんなものしかいないのでしょうか?

未曾有の大災害も『抗いきれない』ものではないのでしょうか?
良いか悪いかは別にして、
アーティストを自称される方々の声が聞こえないというのは、
なんだかとても淋しく感じます。

ある意味、ソフトバンクの孫さんはアーティストのようにも見えます。

日本人の場合、芸術という表現よりも
技術や科学といった表現の方が得意なのかもしれませんね。

意味のわからない話ですいません。
でも、それはそれで素敵なことだと思います。
阿吽の呼吸 伝えることは思いやりでしょ。
 日本の文化には『阿吽の呼吸』というものがあると言われます。
その言葉の意味はわざわざ記載するまでもなく、
皆さんご存知だと思いますので省きますが。。。

日本語は他の言語に比べ表現力が多彩だと言われます。
擬音表現や感情表現は多彩で、
思った言葉を英語に変換しようとすると
なかなかしっくりといかない。
ということに戸惑いを覚えたことがある方も多いかと思います。
勿論、国語として培われたボキャブラリーの問題で
実際のところ本当に少ないのかどうかはわかりませんが。

そんな日本人として生活しては来たものの、
実際のところ、会話をするときには家族であれ、
友人であれ、恋人であれあまりにも伝えたいことが
伝わらないというもどかしさを覚えたことがある方はとても多いと思います。

そんなつもりじゃなかったのに。。。
本当はちがうのに。。。
どうしてわかってくれないの。。。

なんて、感覚を覚えたことは数え切れません。
勿論、だからこそ、その誤解を避けるために言葉を尽くし、
時間を掛け、言葉だけではない様々な表現を通して、
少しでも100%に近づけたいと努力をするものですよね。
特に関係性が重要であればあるほど、
諦めきれないもどかしさを払拭しようと。なんて。

しかしながら世界というのは『平等』なもので、
その『我欲』とも言える『私の気持ちを100%理解してほしい』という
欲求を全て叶えるのは、相手の絶対的な了解というものがあってはじめて
成立するように思います。

かつて、今のように携帯電話もなく、
自宅に電話もなく、さらに電車、車、
という今では電子機械というものが一切なかったころ、
『言葉』は己を表すものとして絶対的な意味を持っていました。

決して届かぬ思いを残すことだけに綴られ、
国の命運を左右する行動をひとつの言葉に置き換えて、
叶えられなかった想いを言葉に託して。

と、大げさですが、それこそ『伝える』為に考えられうる力を、
決して乗り越えられない制限の中に尽くしてきたのだと思います。

と、前述のように『言語』だけの話になると、
結局私の表現力の問題もあり、
『メールがね。。。』
『携帯がね。。。』
『でも手紙なんて。。。』
と、なってしまうのが哀しい限りですが、
そうではなくというわけではありませんが、そうではなく。

今にして思えば『不便』な時代だったからこそ、
それらは仕方のないものであり、また回顧主義的に甘美なものに思え、
結果的に現在得ている恩恵というのは、
否定しがたいものですし、今更携帯を手放すというのは、
日本社会に存在する上ではある意味で『異端』と批判されかねないぐらい、
『当たり前』のものになっていると思います。
また、生命体として『進化する医療』を受けている時点で
そんなこということは出来ません。

と、ようやく本題に戻り、
そんな現代に生きている私達が行うべき『伝える』方法というのは、
どういった方法なのでしょうか?

かつて、『想い』は上記でも記載したように、
『制限』の中で尽くされてきました。
また、『受け手』もその制限を理解し言葉に残る
『かすかな想い』を見出したのだと思います。

書き手は制限された紙の上に、
この言葉で伝わるのだろうか、
この言葉は誤解されないだろうか、
この言葉で思い出してもらえるだろうかと思いを込めて、
一文字一文字に時間を掛けて、
紙の上に『自分』を残し、
受け手は、その漏れる想いを最大限考慮し、
時には己を慰める為に補填し、装飾し、
状況に合わせ、考えられうる『理解』をする為に
時間を掛けたのだと思います。

さてさて、というわけで最初に述べた『阿吽の呼吸』、
あなたはこれをどのように『理解』されますか?
勿論『言わなくてもわかる。』『心が通じ合っている』『以心伝心』
と、言いたい気持ちもわかりますし、
本当はそうなのかもしれません。

しかしながら、私は心が通じるまでの『訓練』は、
恐らく誰一人とも出来ていないと思います。
そんな言い方をすると『淋しい人ね。』なんて、
言われてしまいそうですが、
本当にあなたはそれほどまでに相手の気持ちを理解しておられますか?

以上の憶測から、個人的には日本の表現力が多彩な理由は、
『阿吽の呼吸』なんて逃げ道が一切介入できない、
『大切な人』への『制限』の結果だと思います。

勿論、気持ちを交わし続けた『訓練』の結果として
あくまで『両者の了解』の上での阿吽の呼吸、
以心伝心というものはあると思いますが、
逃げ口上に使う『阿吽の呼吸』とはまったくもって意味が違うように思います。

なんて、意味はどちらであってもどーでもいいですが、
こんな時代だからこそ、『日本人だから!』と誇大に叫ぶよりも、
『伝える』為の方法として、言葉を尽くしてみてはいかがでしょうか。


あなたの言葉は誰にも伝わっていませんよ。


いやぁ、長くなってしまいました。
まだまだ、私は阿形、吽形に遠く及ばず誰一人守れないのですね。。。
日本とまではいかないまでも、
代表と呼ばれる方々にはもう少し『訓練』をしてほしいと思うものです。

まぁ、そうはいっても『ショボッショボの人』ですからね。
漫画論3
 長々と恐縮です。今回で一時終わりです。

というわけで、リアリティの話をしましたが、もうひとつ。
漫画はそれこそわかりやすく痛快です。
そして、何よりもカッコいいです。

このカッコよさというのが厄介です。
感情移入できるのか。という話をしましたが、
感情移入できるから感動し、はまるわけですね。

ワンピースで言えば、それぞれの登場人物がプライドを保持し、
そのプライドの為に戦う。
まるで読んでる自分も物語の中で、戦いプライドを保持する。

そして、安堵する。

憧れの存在であったり、自分のまだ見ぬ未来の像であったり、
具体的な像が結べないイメージだけの存在であれば、
ある意味で自己と同一視することは少ないと思いますが、
イメージが映像、特に漫画というどちらかというとシンプルなものであると、
わかりやすさから自分と結びつきやすくなりますよね。

その登場人物がある意味で自分を代弁する。
その爽快感は、何事もやり遂げていない自分の代わりに、
強く、勇ましく、優しい。まるで自分のように。。。

そんな環境で育った世代はそれこそ万能であると思い、
また、特別だと感じる。

なんとなく、勝手に草食系。っていうのが、
勝手にわかった気がする今日この頃です。

池波正太郎を読みなさい。
そして、男のかっこ良さを知りましょう。
なんて、勝手な言い分お許し下さい。

ワンピース大好きですよ。
漫画論2
 というわけで続きです。
個人的な感想ですが、尾田さんの好きな時代活劇、
任侠モノとワンピースには決定的に違いが有ると思います。

それはリアリティ。というと誤解を招きますが、
わかりやすく言えば登場人物設定だと思います。
これはどうしようもないことであり、
ターゲットの問題なので良い悪いではありませんので、
くれぐれも気分を害されないで頂きたいのですが。。。

時代活劇、任侠モノ 20代後半〜
漫画(少年漫画)   10代
もちろん最近では青年誌も多く、深度の深い漫画も多くあります。
ただワンピースは少年誌です。

若かりし頃というより子供の頃、
多くの方が主人公である『お兄さん、お姉さん』に憧れ、
また影響を受けたのは良い面も多くあったのでしょう。
しかしながら、少年期を終えた青年たちが、
自分よりも場合によっては年下である登場人物たちに
どこまで感情移入できるのでしょうか。

勿論、感動的な話もあり危うく涙しそうになることも多々あります。
しかしながらそれは自己の過去との照らし合わせではないでしょうか。
『こんなこともあった。あんなこともあった。』というのは
悪いことではないですが、リアルな世知辛い現実を生きる上で、
10代を卒業した人たちが、『こうであろう。こうなりたい。』という
展望を抱くことはあるのでしょうか。

ただ、現実は確かに世知辛いです。
だからほんの束の間逃避し、
場合によってはワンダーな世界に入る事も大事なことです。

と、また長くなってしまいましたので、続きは次回。
漫画論1
 日本の文化は漫画とアニメーションだ。
なんてことが叫ばれ始めて早10年。
私自身漫画もアニメも好きですし、
様々な物を学んだ気もします。

どれぐらいの年代からが『大人』といわれるのかはわかりませんが、
大人の方々はよく漫画なんて読んでないで、活字を読みなさい。
なんてことを仰られますね。

個人的に漫画の良いところと言いますと、
こまわりいわゆるカット割の芸術性と、
作者の表現を具体化する表現力だと思います。

逆に活字(ここでは小説)の良いところと言いますと、
読者に想像を喚起させることと、
言葉の組み合わせのみで、物事を表現することだと思います。

どちらも見る角度によって良いところがあり、
また悪いことがあるわけですね。

最近では年齢問わず『ワンピース』が大人気ですね。
海賊という言葉と、大航海というものには少なからず胸躍らされるものがあります。
ポッドキャストのジブリ鈴木さんと作者尾田さんの対談で、
鈴木さんがワンピースを評して『時代活劇』だと仰っておられ、
そのコメントに尾田さんが意図を察知され喜んでおられました。

尾田さんは時代活劇や任侠モノがとても好きで、
まさしく描かれているアクションはそんなシーンが目白押しですね。
そんなわかりやすくも痛快なストーリーに、
私も含め多くの読者の方は魅了されているのだと思います。

しかしながら、批判を承知で言わせてもらえれば。
というわけでまた次回。

支払い方
JUGEMテーマ:日本の文化
 お金ついでに、引き続きお金の話です。
大人になると。なのかどうかはわかりませんが、
大人になり、恋人、友人、知人と交流すると、
大方というか100%お金が発生する出来事があるものです。
いつの間にか、子供の遊びが出来なくなったもんだ。
なんて、回顧主義はおいておいて、そんなもんですよね。

もちろん、自分たちのコミュニティと他のコミュニティの関わりですから、
そういったある種の境界線が発生するものです。
そして、凡その場合、その境界線の上になると(支払いとか。)
沈黙が訪れます。(店員さんの前で無視して話すなんて考えられませんからね)

映画の中で、つじつまの合わないストーリー展開になると、
「ん?」と、誰もが違和感を覚えるような経験をしたことがあると思います。
そして、その違和感が世界観を壊し、また集中姿勢を壊します。
そんな間が、たいてい訪れます。

自分の大切な方々との時間というものはとても重要なものだと思います。
出来ることならそこに、違和感の間は作りたくありません。
お金の話とは残念ながらとてもリアリティがあります。

コミュニティというある種バーチャルな覚醒状態に、
映画館で突如鳴り響く、着信音のようなリアリティは、
絶対にいらないと思います。

時間とは有限であるからこそ美しいものです。
出来ることなら限られた時間はずっと続いてほしいと思うものです。
ですので、お金があるなしに関わらず、
男性(払い手)であれば出来うるのなら、相手の方が気づかないうちに支払いを済ませたいし
女性(受け手)であれば「いくら?」なんて一言とは違う別の一言を、
見つけてほしいと思うものです。
お札 扱い方
JUGEMテーマ:日本の文化
 『お洒落をすることはマナーである。』と
あるイタリア人が言っておられました。

いやぁ猛暑です。
街を歩くと皆さん薄着ですね。
ファッションもそれなりに様々ですが、
どうも夏の男性の薄着の装いというのは私自身違和感を覚えます。
しかしながらこうも暑いと、あまりファッションに興味のない私としては、
やっぱり快適さが一番と、マナー以前の装い事情です。

ここ数年、ホリエモンの影響というわけではないですが、
マネークリップを持つ方や、ワイルドな雰囲気っぽいのか、
財布を持たず、お札をくしゃくしゃっとポケットに突っ込む光景を見かけます。

また財布のデザインも、ガラスグラス同様薄さブームですかね。
ちなみに私の財布も薄いですが。。。

まぁ、そんなことはさておき、
お金の扱い方、特にお札の扱い方というのには人柄が表れます。
イメージの中で、くしゃくしゃのお札は『北の国から』のように、
ピンと張った新札は、特に思い当たる節がないですが、
皆様おおよそイメージすることがあると思います。
また、受け渡しの仕方なんてものも人それぞれですね。

どちらが良いかとかそういった話はナンセンスです。
ただ、お金というのは、人との係わりの代替手段です。
その受渡しにも気を配らないといけないな。と、
あまりの暑さに財布を持たず、
くしゃくしゃにポケットに突っ込んだお札を出して少し自己嫌悪です。

たいしたことではありません。
しかしながら、そのお札だけが物理的に
私が出したものであるという事実は変わりません。

ATMから二千円札が出てくるように(必要ないですが少し、おっと思っちゃいます)、
そんなやりとりにも少し気持ちを乗せてみたいな。
と思う今日この頃です。